大正7年11月に第一次大戦終了。異常ともいえる戦争景気に沸いていた日本は、終戦とともに景気はドン底に落ちた。鉄・銅・鋼材などの価格は一挙に暴落。 官営八幡製鉄所も例外でなく、直轄の赤谷鉱山は操業中止。完成したばかりの赤谷線は不要となった。
今まで陳情してきた地元町村は、「不要」に呆然とした。 放置されたままの鉄道を見て、地元民は「赤さび線」と呼ぶようになった。
しかし、「運命の女神が」。 大正13年7月、羽越線が全通した。そして8月、当時の鉄道大臣が鉄道事情視察のため秋田から羽越線で越後入りすることになった。 時を同じくして、「赤谷運鉱線は無償で鉄道省に移管する」と政府発表が行われた。
「千載一遇の好機」・・再び地元は燃えた。 次回に続きます。