将来こうなりたいと思う自分があります。その「なりたい自分」を具体的にイメージするためには、あそびが必要であることがハッキリ分かりました。あそび(ゆとり、余裕)があるからこそ、遊びのなかでなりたい自分をいろいろイメージしながら、実際に試すことができるのです。その「なりたい自分」は、他人から押し付けられた、「良い子」としての自分では全くありません。自由にイメージし、自分自身が本当に望んでいるのは「これだ!」と実感できる<私>です。この<私>こそ、「確かな自分」ですから、一般的には、「アイデンティティ」と呼ばれることもあります。
1つの物の見方が個人の中で発達することは、この本の第2章ですでにご説明しましたように、日常生活のこまごましたことを一つ一つ礼拝にすることによって、完成されます。この日常生活のこまごましたことを一つ一つ礼拝にすることは、個人が個人と行う、一番些細なやり取りから、文化的行事の厳かな社交の場まで、至ります。みんなはこう言います。「これは、私どもが、見て分かったり、言ったり、やったりするやり方だね。これこそ、人間らしいやりかただ」とね。ヴィジョンとは、こまごましたことに当てはまると同時に、いつくかの集団になった人間たちを、お互いにやり取りする中で、1つにまとめる、世界に対する物の見方と価値にも当てはまるように整えられた諸事実に基盤があります。
ヴィジョンは、事実を事実のままにしていても、出てくるものではないようです。ヴィジョンの基盤は整えられた事実、アレンジを加えた事実にある、と言うのがエリクソンの主張です。ヴィジョンは、この世とあの世を繋ぐ物の見方でしょう。あの世を認めない立場の方には、内村鑑三に習って、この世と「後世」を繋ぐ物の見方と言い換えてもいいでしょう。ヴィジョンは、日常生活のこまごましたことにもピッタリ合っている、というリアルな感じ(主観的な感じ)があると同時に、人々がやり取りの中でまとまることができる物の見方と価値にも当てはまるアクチャルな感じ(お互いに「なるほどね」と分かり合える「共に見る」感じ)があるようにアレンジされ、整えられた事実に基づくことが分かります。
したがって、ヴィジョンには必ず、この世とは別の視点が必要です。その意味では、ヴィジョンには必ず、何らかの「超越」が必要です。
今の日本にヴィジョンが乏しいのは、何らかの「超越」を内包した、この世とは「別の視点」が乏しいから、と言えるでしょう。