ヴィジョンは、日常生活の具体的なことにも、人々をやり取りの中でまとめ上げる物の見方と価値にも妥当する、整えられた事実に基づく、と言うエリクソンの主張も極めて重要です。日常生活の儀式化にはヴィジョンが必要だからです。また、その「整えられた事実」と言う時、いったいどうやって人は事実を整えるのか?という課題もありますね。
私はここで、そのようなヴィジョンがたくさんの分野で現れていることを、描いていこうと思います。まず手始めに、私に身近な趣味と仕事、すなわち、芸術と精神分析から始めましょう。とにかく、これによって、私は物を見るという経験を皆さんと分かち合うことから、始めることができます。最近、ヘルムート・ウォールから、サンフランシスコで、「物の見方について」という論文を貰いました。その論文の中で、彼はルネッサンス絵画の正規の物の見方を、その物の見方が広めるはずのキリスト教信仰に結びつけると同時に、その物の見方と信仰の両方を、希望を見通すヴィジョンを求める気持ちと結びつけました。
美的なヴィジョンは、一貫した物の見方から、理解したことをまとめるためのひな形を提供します。〔このようにして、美的なヴィジョンは、]根源的信頼を再確認することを物語ります。すなわちそれは、多分、1つの物の見方が示すことが一貫しているのかどうかを測るための、最深の判断基準を物語るものです。最終的に、美的ヴィジョンは、1つの物の見方が現実をまとめる1つの理想、1つの判断基準を提供してくれます。
美的ヴィジョンは、根源的信頼を再確認することを表すことであり、1つの物の見方が現実を整えてまとめる際の1つの理想、1つの判断基準になる、と言うがウォールの主張であると同時に、エリクソンの主張でもある訳です。つまり、美的ヴィジョンがあると、現実はある方向性、オリエンテーションを持つものとなる、ということになります。そうすると、「こっちの方に生きよう」、「こんな生き方をしたい」という<生きていく方向(オリエンテーション)>も決まってきます。この<生きていく方向(オリエンテーション)>は、ウォールの言葉で言えば、1つの物の見方が現実をまとめる1つの理想、1つの判断基準になります。
しかし、これは意識的にそうしている、という場合ももちろんありますが、むしろ、「気が付くとそうなっている」、「自然に、そっちを選んでしまった」、「なんとなく、そっちの方が好き」という感じの、いわば、半意識的な判断基準なのです。
これを、フラナリー・オコーナー、ないしは、サリー・フィッツジェラルド、そして、大江健三郎の言葉で言えば 「the habit of being 生活(生き方、心の態度)の習慣、根本的気風」 、石井桃子の言葉で言えば、「美意識」・「心の重石」です。それは、心の中で<私>が<静かにささやく声>に、群れたり、忙しくしたりして、誤魔化さないで、耳を澄ませて、繰り返し従っていく中で育まれるものなのです。
この<生きていく方向(オリエンテーション)>は、多くの場合、目立ちません。あまりよく分かりません。「そんなことなんざぁ、ありゃしない」と言う人がでてきても不思議ではありません。なぜって、<生きていく方向(オリエンテーション)>は目には見えませんからね。
そういうことが分からない人でも、この<生きていく方向(オリエンテーション)>がある人を見れば、たとえ、その人が<生きていく方向(オリエンテーション)>を声高に言わずとも、いいえ、たとえ言葉にさえせずとも、「信念の人」・「独特の雰囲気のある人」に見えます、感じることができます。
この「エリクソンの小部屋」の読者の方は、<生きていく方向(オリエンテーション)>が分かる(分かってくる)と思います。どうぞ、「ご自分の声を見つけてください Find your own voice!」