春へのジャンプ
2度生まれは、家族や社会が子どもに教えた物の見方、世界に対する視点を、根源的に方向転換した人のようですね。繰り返しになるかもしれませんが、家族や社会(学校)が子どもに教える物の見方には、非常に強い慣性がありますから、2度生まれになって、新たな物の見方を見につけるためには、自覚的・意識的・能動的営みが必要です。
私どもは、10代や20代前半の若者たちが、宗教や他の信念体系の中に探すものを、価値(イデオロギー)と呼ぶことにしましょう。たいていの場合、その価値は、裃を付けたメンバーと、裃を付けた目標のある、闘うのが好きな体制です。少なくとも、それは1つの「生き方」ですし、あるいは、ドイツ語で申し上げるなら、Weltanschauung、すなわち、世界に対する1つの見方なのです。この見方は、現在ある理論、身に着けた知識、常識と調和があります。しかし、実際には、この見方はそれ以上なのですね。すなわち、ユートピア的な見通し、普遍性を感じる気分、教義のうえでの論理、それから、その正しさを証明する必要性もない、自明なものとして分かち合っている、全てのものです。「古いもの」として捨て去るべきものは、その人の以前の生活です。この「古いもの」とは、両親の生き方に内在する物の見方を指すのが普通でして、両親はこのようにして捨て去られます。そのようにして、子どもたちの献身を守る、あらゆる伝統的な守り手に反対します。この「古いもの」は、その当人の体の一部なのかもしれないのに、その後は、私的な生活領域では、ある種厳しい自己否定によって、闘い好きな組織や軍隊組織では、メンバーに徹することによって、抑え付けられます。あるいは、その「古いもの」は、他のカースト、他の階級、他の人種、他の人々の、世界に対する見方でして、単に消耗品というだけではなくて、一番正しい滅びの、定められた犠牲者なのです。
物の見方、世界に対する見方の選択は、生き方の根源的な方向転換です。ここでは、物の見方の転換が、いかにシビアなものかが、物語られています。たとえそれが、宗教におけるものではなくても、極めて宗教的な響きと色合いがありますね。それが最後の件に典型的に表れていると私は考えます。消費や犠牲は感謝や申し訳なさが伴うと良いのですが、それが当然視される時、消費したり、犠牲にしたりする時の痛みが亡くなってしまうところが、恐ろしいと思います。