エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #1人豊か #反射

2018-10-01 06:24:46 | 聖書の言葉から

 

 

マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。



反射

というのは

あらゆるものに

ありますね

 

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#小さいことが大きい

2018-10-01 06:10:35 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 
#渡る世間は鬼ばかりの地図 #渡る世間に鬼はなしの地図
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 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
 第2章。「心と身体を理解する,革命」,p.27,第2パラグラフから。その前もご一緒に。




苦しみを理解すること


 研究病棟で過ごして数年,私は医学校に戻って,新米の医学博士として,マサチューセッツ州立健康センターに戻りました。それは,精神科医として,ワクワクして引き受けたプログラムの訓練を受けるためでした。たくさんの著名な精神科医がここで訓練を受けていきました。その中には,後にノーベル賞の生理学医学賞を受賞した,エリック・カンデルもいました。アラン・ホブソンが夢を生み出す脳細胞を病院の地下室で発見したのも,私がそこで訓練を受けている時でした。鬱の化学的な基盤に関する最初の研究も,マサチューセッツ州立健康センターで行われました。しかし,我々研修医にとっては,最大の関心事は,患者さん達でしたね。私どもは,患者さん達と6時間一緒にいて,その後で,グループで,先輩の精神科医達に観察したことを分かち合って,様々な質問をしたり,1番合点のいく言葉を競い合ったりしました。
 私どものとても大切な先生,エルヴィン・セムラド先生は,1年生のうちは,精神科の教科書を読んではならん! と檄を飛ばしていました(知的に飢えたおかげで,仲間の殆どが,後々,様々な分野の本を読み漁り,多くの研究業績をあげることになりました)。セムラド先生は,精神科の診断名が誤診でも,正しい診断だと信じてしまうことで,事実が見えなくなることがないようにして欲しかったのでした。セムラド先生に質問したことが,ありましたね。「この患者さんは,統合失調でしょうか,それとも,統合失調感情障害でしょうか?」。セムラド先生は,暫く黙ったまま,顎を撫でてから,「たしか,彼のことは,マイケル・マッキンタイヤーと呼んだと思うけど」と応えました。

 セムラド先生が私どもに教えてくださったことは,人間の苦しみは,たいてい,大切にされないことと大切な人をなくすことに関係する,ということと,セラピストの務めは,人が,自分の生きている実感に「気づき,体験し,身に着ける」のをてだすけすることだ,ということでしたね。生きている実感には,様々な喜びも胸が張り裂けるほどの悲しみもつきものでしょ。「私どもの苦しみの源は,私どもが自分につくウソです」。セムラド先生はそのようにおっしゃって,私どもが経験するすべての局面で,自分が生きている実感に忠実であるようにと勧めました。セムラド先生がよくおっしゃった教えは,自分が知っていることを知っていることなしに,自分が実感していることを実感することなしには,良くなりません,ということでしたね。 

 私が忘れならないのは,この際立ったハーヴード大学老教授のセムラド先生が,次のようにおっしゃったことです。すなわち,「夜中に眠いと思ったときに,奥さんのお尻が当たると,ホッとするね」とおっしゃったことです。こんなたわいもない人間らしいニーズを正直に打ち明けてくださったおかげで,セムラド先生は,たわいもないことが,私共の人生にとってどんなにか大切なことかを,教えてくださいました。


 


 小さいことがとても大切です。

 後のものが先になる不思議です。

 

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#聖書の神様のスピリット #忠実に従う生き方 #祈りのある人生

2018-10-01 05:45:23 | エリクソンの発達臨床心理

 
#ハイジャックされた私 #発達トラウマ障害DTD #世間体と同調圧力にハイジャックされた日本人
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 Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.108,第1パラグラフ,13行目途中から。ここ数日分も,ご一緒に。





 青年期と理想:

 本当の自分と真実



 子ども時代の終わりに,自分自身で見通す「自分がやるべき役割(ミッション)」は,条件さえ良ければ,全ての役割の中で一番確かな役割になります。というのも,ミッションのおかげで,様々な技術の点で,私どもは確かにされますし,私どもは,目に見える仕事の中で,生きがい感を(自分には値打ちがある,と)体感することができます。しかし,思春期は不安定ですし,子ども時代を卒業しなくてはなりませんし,また,時代も不安定ですから,様々にぶつかり合う自己イメージが生まれてきます。それは,私どもは労働者としての顔があるだけではなくて,パートナーとしての顔,親としての顔,市民としての顔も心の中に備えておかなくてはなりませんし,自分はまるで機械がうまく動くため,効率よく役割を熟す為に犠牲にされている,と感じることもある時代と同じです。私の他の本で何とか申し上げたことを手短に申し上げますと,聖書の神様と一心同体になる道は,子ども等が,子ども時代に終わりに,自分自身にとっての意味と,自分にとって大切な人にとっての意味と感じられることが,やり取りがあってピッタリと一心同体になっているのか,次第です。若者が退行しがちなのは,心の中で遊んでいるあの子どもに触れる中で不動にされるためですし,若者が「不登校に(会社に行かなく)」なりがちなのはも,時の中で力を得るためです。あるいは,包括的な様々な哲学的なヴィジョンを掴み取るため,という場合もあります。包括的な様々な哲学的なヴィジョンが人々を強烈に束ねるのは,生きている実感を肯定するヌミニースの原理,生きている実感を話し言葉にする原理,生きている実感に則って遊ぶ原理,生きている実感を正しい生き方にする原理を束ねる,非常に分かりやすいけれども,人の気持ちを省みないことが多い答えで,しかも,自分が思い煩っているこをすべてを,他人のせいにする答えでもある場合です。

 ここから,2つの生き方が続きます。かたや,いつも驚きがあり,時として,ショックな場合もある,「歓んで生きる意志から生まれ,歓んで生きる意志を繰り返し育む」「日常生活の礼拝」を,バラバラにすることもできます。その礼拝がバラバラにすれば,青年はお互いの関係を日々礼拝にするもできませんし,持つ立場の大人からも,待たない子どもからを(少し,あるいは,悪い良心と戦って),自分の世代を区別することも,出来ません。かたや,「日常生活を礼拝にする様々な,天晴な礼拝と,そういう礼拝から生まれる,様々な天晴な習慣」を身に着けることができます。というのも,生きている実感を法則にして,日常生活の礼拝で,天晴れな人生の習慣を身に付けるからこそ,聖書の神様から,とても良いと共に徹底的に肯定されて,不動にされ,神様の恵みにさらに恵まれ,独立していられる人物になれます。この様な人物に青年がなりますと、自分たちの仲間(人間を上下2つに分けるウソから生まれた、上に立つ自分たちの仲間)の求めに,心から応えられますし,仲間内でエリートにもなれます。その時にだけ,青年は大人になる階段に入れます。大人になるとは,未来を眼に見える様に出来る,ということですね。その未来で,本物の大人は,子ども達の生活の中で,日常生活を礼拝にする礼拝の司式をする者になるのですし,おそらくは,子ども達の生活の中で,日常生活を礼拝にするのに相応しい場を良く良く見分けることが出来る,ということです。「共に勝ち得た,生きている実感に対する全うな信頼」があれば,日常生活を礼拝にして,自分が生きている実感が発展し続けることの中で発達した,日常生活を礼拝にする様々な原理全ては,世の中に対する唯一無二のイメージの中で一体になりますし,様々な考え方や様々な理想が筋が通ったものにもなります。ただし,実際には,多くの人が,あるいは,強烈に,せかされて成長しなくちゃ,とならなければのお話ですがね。
 動物等が,相手を大切にする生まれながらのパターンを互に歓んでやる,お互いに大切に出来る仕組みは,人間には,子どもと青年の時期にだけにしか,当てはまらない,と言われています。人間らしい生き方の中で,十二分に成長するとは,科学技術や政治の仕組みの中で,立場を得る心構えが出来ることですし,自分の仲間の心からの優しさに固有の,決して否定仕切ることなど出来ない,様々な価値やイメージも腑に落ちている,ということです。その様々な価値やイメージは,お互い様に,為にならない輩や,時代遅れ,あるいは,異質なものの考え方を排除することになります。ですから,青年期には,対人関係の中で一心同体になる心の習慣の成長と,その文化がもつ,日常生活を礼拝になるパターンに浸透している,「実感から生まれる哲学の作り方」を受け止める準備とを育む,特別に良い分かれ道をハッキリと描いてきたんです。人と一心同体になることと,「実感から哲学を育むやり方」が一つになって初めて,青年は,科学技術や歴史の回転方向と,自分の新たな強さとを一緒にすることもできます。それに,創造の場では,この本で記してきた,私が生きている実感を創造する様々な原理を,科学技術の面で満足できる日々の中で,青年が一つに出来た場合や,宗教上,民族上,軍隊上の日常生活の礼拝や行事に青年が参加できる場合は,分かれ道は一心同体になるルールができる準備ができて,一心同体になるルールに忠実ですと,驚くほど聖書の神様に従うイメージができます。ただし,実際に役に立つ心の習慣を心から受け容れることが,基盤になっている場合がおおいものです。その実際に役立つ心の習慣は,見た目には,「人間を上下2つに分けるウソの現実」と映るかもしれません。




 「若き日に,あなたを創造した聖書の神様を思い出して,祈りなさい」と聖書にあるみたいに,聖書の神様に忠実に従う生き方は,青年期から始まります。エリクソンの日常生活を礼拝にする心理学は,それを心理学的に明確にしたものです。

 このようにして,祈りのある人生が始まります。

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#殺人的社会ニッポン #生きている実感 こそ #体得する体験知 #独立自尊 と #生きている意味をプレゼントしてくれる

2018-10-01 04:28:58 | エリクソンの発達臨床心理

 
エリクソンの叡智 : #エピジェニックの法則 #ユダヤ教的時間
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 The Galilean Sayings and the Sense of “I”. The Yale Review. April 1981, p330の第3パラグラフ。三度。

 

 

 

 

 関わる中で、≪私が生きている≫実感をまじめに取り上げた聖書記者たちは、まずはじめに、何が≪私が生きている実感≫の遊び相手なのかを問うことになるでしょう。聖書記者たちは、実際には、2人称、≪私が生きていることを実感しているあなた≫から始めるかもしれません。それで、聖書の神様のスピリット 、いつでも私が生きている晴れ晴れとした実感そのものである≪あなた≫とともに終わりの日を迎えるのかも分かりません。私の発達上のオリエンテーション、指針にとって、≪私が生きている≫実感の発達を描くのに最も雄弁な「地図」は、人称代名詞を話し言葉にしたものの全リスト、つまり、≪生きていることを実感した私≫から≪生きていることを実感した彼(女)ら≫になるでしょうね。その生きていることを実感している,人称の全リストのひとつひとつは、はじめは子どものころに正しく話し言葉にしたり、それぞれの関係のど真ん中で,生きている実感を確かめて確かにしたりするようになりますが、その後、人生を通して、その人称の一つ一つを相手に、意義深く、繰り返し繰り返し、≪私が生きている実感≫を試しは確かめ,試しなおしては確かめて,体得した体験知になり,生きていることに意味をプレゼントしてくれます。≪私が生きている≫実感そのものは、自分のことも大切にしてくれるお母さんの中で,お母さんが≪生きているそのものの実感の塊であるの聖書の神様≫と時空を共にすることで,≪生きている実感≫を実感していることから、始まるもんだ,と考えていいんです。ですから,お母さんのことを、私どもは「最初の相手」と呼ぶことにもなります。さらに,この「最初の相手」であるお母さん,それから,創造の場では,互いに大切にしあう様々な相手が,お互いさまに,それぞれ「自分自身の」≪私が生きている≫実感を高めてくれる「今ここに共にいてくださる相手」として,あの新しい人を試して確かめることが,生死を分けるほど大切になります。最初の≪私が生きている≫の実感が,次第に,もう1人の根源的な遊び相手,すなわち,「本当の自分」と出会うのは,まさに,このお母さんが聖書の神様から≪生きている≫実感を頂いて,赤ちゃんにも分けてもらえる関わりです。ですから,「本当の自分」とは,心の中で互いに大切にしあうほぼ唯一の相手になります。しかし,そのもともと「あたなと私」の母子2人がお互いさまに大切にし合うことは,生涯を通して互いに大切にしあうことのひな型になり続けますし,聖パウロが,「ガラス越しに朧げに」曖昧にしかジッカンスルことができない,と最後の出会いを宗教的にハッキリと示した最後の出会いまで,残ります(最後の時には,究極的に互いに大切にしあう相手である,聖書の神様がお相手です)。

 

 

 

 生きている実感は,お母さんに始まって,「本当の自分」や聖書の神様まで,「今ここに共に居る」ということを繰り返す中で,試して確かめるものです。

 ですから,1歳前後の赤ちゃんの目の前に共に居ることがほとんどできないお母さんが多いニッポンの現状は,殺人的です。

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