マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。
ああ こんなに 小さな
おちびちゃんを
ここまで 走らせた
地球の 用事は
なんだったんのだろう
マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。
ああ こんなに 小さな
おちびちゃんを
ここまで 走らせた
地球の 用事は
なんだったんのだろう
現世考: #だんまりの源は何処? #データ改ざん #神戸製鋼NHK安倍政治発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80......
ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
第2章。「心と身体を理解する,革命」,p.28,第3パラグラフから。その前もご一緒に。
苦しみを理解すること
研究病棟で過ごして数年,私は医学校に戻って,新米の医学博士として,マサチューセッツ州立健康センターに戻りました。それは,精神科医として,ワクワクして引き受けたプログラムの訓練を受けるためでした。たくさんの著名な精神科医がここで訓練を受けていきました。その中には,後にノーベル賞の生理学医学賞を受賞した,エリック・カンデルもいました。アラン・ホブソンが夢を生み出す脳細胞を病院の地下室で発見したのも,私がそこで訓練を受けている時でした。鬱の化学的な基盤に関する最初の研究も,マサチューセッツ州立健康センターで行われました。しかし,我々研修医にとっては,最大の関心事は,患者さん達でしたね。私どもは,患者さん達と6時間一緒にいて,その後で,グループで,先輩の精神科医達に観察したことを分かち合って,様々な質問をしたり,1番合点のいく言葉を競い合ったりしました。
私どものとても大切な先生,エルヴィン・セムラド先生は,1年生のうちは,精神科の教科書を読んではならん! と檄を飛ばしていました(知的に飢えたおかげで,仲間の殆どが,後々,様々な分野の本を読み漁り,多くの研究業績をあげることになりました)。セムラド先生は,精神科の診断名が誤診でも,正しい診断だと信じてしまうことで,事実が見えなくなることがないようにして欲しかったのでした。セムラド先生に質問したことが,ありましたね。「この患者さんは,統合失調でしょうか,それとも,統合失調感情障害でしょうか?」。セムラド先生は,暫く黙ったまま,顎を撫でてから,「たしか,彼のことは,マイケル・マッキンタイヤーと呼んだと思うけど」と応えました。
セムラド先生が私どもに教えてくださったことは,人間の苦しみは,たいてい,大切にされないことと大切な人をなくすことに関係する,ということと,セラピストの務めは,人が,自分の生きている実感に「気づき,体験し,身に着ける」のをてだすけすることだ,ということでしたね。生きている実感には,様々な喜びも胸が張り裂けるほどの悲しみもつきものでしょ。「私どもの苦しみの最大の源は,私どもが自分につくウソです」。セムラド先生はそのようにおっしゃって,私どもが経験するすべての局面で,自分が生きている実感に忠実であるようにと勧めました。セムラド先生がよくおっしゃった教えは,自分が知っていることを知っていることなしに,自分が実感していることを実感することなしには,良くなりません,ということでしたね。
私が忘れならないのは,この際立ったハーヴード大学老教授のセムラド先生が,次のようにおっしゃったことです。すなわち,「夜中に眠いと思ったときに,奥さんのお尻が当たると,ホッとするね」とおっしゃったことです。こんなたわいもない人間らしいニーズを正直に打ち明けてくださったおかげで,セムラド先生は,たわいもないことが,私共の人生にとってどんなにか大切なことかを,教えてくださいました。たわいもないことに関心を向けることができないと,いくら気高い思想があっても,世界的な業績を上げても,発達できない人になってしまいます。セムラド先生が私どもに教えてくれたことですが,治療とは,体験知に根差す,ということです。皆さんが人生の主人公になることができるのは,自分の身体の実感を,身に沁みて,気づくことができた時だけです。
私どものプロの仕事は,しかしながら,間違った方向へ移行しつつありました。1968年,『アメリカ精神医学研究』誌は,私が研修医だった病棟の,様々な研究結果を載せました。その様々な研究結果によって明らかになったことは,薬だけを飲んでいる統合失調症の患者さんは,ボストンで最も優れたセラピストに,週に3日セラピーを受けた統合失調症の患者さんよりも,良かった,ということでしたから。この研究は,薬と精神医学が心の病気を治療する治療法が徐々に変化していく,たくさんの節目の1つになりましたね。すなわち,精神医学が,耐えられない様々な気持ちや人との様々な耐えられない関係を,制限されずに打ち明けることを重視していたところから,個々の「障害」を脳と病の様々な関係とみる見方を重視するものへと,徐々に変化していったんです。
人間のさまざまな苦しみを治療する方法は,その時代に手に入る科学技術によって決まってきます。啓蒙思想の時代以前は,異常行動が,神様や罪や魔術や魔女や悪霊のせいにされた時代もありました。フランスとドイツの科学者らが,行動を研究して複雑な世の中に対する適応だとみなしたのは,ほんの19世紀になってからです。いま,新しいパラダイムが登場しつつあります。怒り,欲,誇り,むさぼり,欲深さ,なまけたい気持ち,その他,人間様が何とかしたいと戦ってきた気持ちも,様々なそれ相当の化学物資を管理することで,直すことができる「障害」となるとされました。精神科医は,「本物の科学者」になれることに,ホッとしましたし,喜びもしたわけです。それはまるで,実験場,動物実験,高価な機材や複雑な診断テストは駆使するのに,フロイトやユングみたいな哲学のある,俄かには理解しがたい理論は,わきに置いておく,医大のクラスメートみたいです。精神医学の教科書は,こんなものになり果てました。「心の病の原因とは,脳の異常,化学物質のバランスの崩れであるとみなされています」と。
同僚みたいに,私も薬を使う医学の大変化を熱心に活用しました。1973年,私は,マサチューセッツ州立精神保険センター最初の精神医学部長になりましたし。また,ボストンでうつ病患者にリチウムを処方した最初の精神科医は,私かもしれませんしね。(オーストラリアでリチウムを使ったジョン・ケードの業績について読んだことがありましたし,リチウムを使用する許可も病院から得ていました)リチウムを使いましたところ,この25年間,5月になるたびにそう状態になり,11月になるたびに自殺するほどうつ状態になった女性は,私の治療の下では,その悪循環から脱して,安定しています。私はまた,古い精神病棟裏の倉庫に入れられていた慢性患者さんたちの,抗精神科薬,クロザリルを,アメリカで試験する研究チームの最初のメンバーでしたね。奇跡的に薬が効いた人もいましたね。自分自身を隔離した暮らしをずっとしてきて,現実を恐れてきた人々が,いまや家族と地域に戻ることができたんです。暗闇にはまって,絶望していた患者さん達が,人間らしい触れ合いや仕事と遊びの様々な喜びに応じはじめました。こういった素晴らしい結果によって,私どもは,人間のみじめさをとうとう克服できた,と楽観してしまいました。
抗精神科薬は,アメリカの精神病院の入院患者を,1955年の500,000人から,1996年の100,00人へと減らした大きな要因でした。抗精神科薬の登場以前の世界をご存じでない方には,この変化は信じられないことでしょう。医学校一年生として,私がイリノイ州のカンカキー州立病院を訪れて,目にしたのは,図体のデカい一人の看護人が,何十人もの汚くて,裸にされた,支離滅裂なことを口にしている患者さんたちに,ホースで水をかけているところでした。そこは,家具が一つもないデイルームで,その部屋は,水を流すために,溝が切られていました。この記憶は,私がこの目で見たものというよりは,悪夢みたいなものでした。研修終了後の私の最初の仕事は,1974年,かつては由緒があった施設でした,ボストン州立精神病院の最後から2番目の施設長になりました。この施設は,以前は幾千人もの患者を収容し,たくさんの建物が何百エーカーもの広い敷地に広がっていて,そこには,温室,花壇,作業場もありました。そのほとんどが今では廃墟です。私が施設長だった期間,患者さんたちは徐々に「地域社会」に出ていきました。この「地域社会」とは,十把一絡げの呼び名でして,名もない保護施設や介護付きの小規模施設のことで,そこが大規模施設から出た知的障害者の終の棲家になりました(皮肉なことに,「ホッスヒタル」と呼ばれた知的障害児施設は,「知的障害児の保護施設」としてはじまり,その意味は「聖域」でしたのに,その「聖域」は次第に,皮肉な意味を帯びるようになりました。知的障害児施設は,はじめは実際に避難所になり,皆が患者さんの名前とその人となりを知っていました)。1979年,私が退役軍人局に移動した直後に,ボストン州立知的障害者施設の門は,永遠に閉ざされて,ゴーストタウンになりました。
私がボストン州(訳注:マサチューセッツ州)にいる間,マサチューセッツ州立精神保健病院の精神薬理学研究室で仕事を続けました。その研究室は当時,別の研究に集中していました。1960年代,アメリカ保険省の科学者たちは,血液と脳の中の,ホルモンと神経伝達物質に特定し測定する技術を開発し始めました。神経伝達物質はニューロンからニューロンへと情報を伝える化学物質ですが,この神経伝達物質のおかげで,人はこの世の中と上手に関わることができます。
神経伝達物質が様々に分かったおかげで,様々な薬が開発されました。セロトニン再取り込み阻害剤(SSRI)はその代表選手でしょう。
しかし,それは大きな負の側面もありましたことは,ここまで翻訳したとこから,明らかです。
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Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.109,第3パラグラフから。ここ数日分も,ご一緒に。
青年期と理想:
本当の自分と真実
子ども時代の終わりに,自分自身で見通す「自分がやるべき役割(ミッション)」は,条件さえ良ければ,全ての役割の中で一番確かな役割になります。というのも,ミッションのおかげで,様々な技術の点で,私どもは確かにされますし,私どもは,目に見える仕事の中で,生きがい感を(自分には値打ちがある,と)体感することができます。しかし,思春期は不安定ですし,子ども時代を卒業しなくてはなりませんし,また,時代も不安定ですから,様々にぶつかり合う自己イメージが生まれてきます。それは,私どもは労働者としての顔があるだけではなくて,パートナーとしての顔,親としての顔,市民としての顔も心の中に備えておかなくてはなりませんし,自分はまるで機械がうまく動くため,効率よく役割を熟す為に犠牲にされている,と感じることもある時代と同じです。私の他の本で何とか申し上げたことを手短に申し上げますと,聖書の神様と一心同体になる道は,子ども等が,子ども時代に終わりに,自分自身にとっての意味と,自分にとって大切な人にとっての意味と感じられることが,やり取りがあってピッタリと一心同体になっているのか,次第です。若者が退行しがちなのは,心の中で遊んでいるあの子どもに触れる中で不動にされるためですし,若者が「不登校に(会社に行かなく)」なりがちなのはも,時の中で力を得るためです。あるいは,包括的な様々な哲学的なヴィジョンを掴み取るため,という場合もあります。包括的な様々な哲学的なヴィジョンが人々を強烈に束ねるのは,生きている実感を肯定するヌミニースの原理,生きている実感を話し言葉にする原理,生きている実感に則って遊ぶ原理,生きている実感を正しい生き方にする原理を束ねる,非常に分かりやすいけれども,人の気持ちを省みないことが多い答えで,しかも,自分が思い煩っているこをすべてを,他人のせいにする答えでもある場合です。
ここから,2つの生き方が続きます。かたや,いつも驚きがあり,時として,ショックな場合もある,「歓んで生きる意志から生まれ,歓んで生きる意志を繰り返し育む」「日常生活の礼拝」を,バラバラにすることもできます。その礼拝がバラバラにすれば,青年はお互いの関係を日々礼拝にするもできませんし,持つ立場の大人からも,待たない子どもからを(少し,あるいは,悪い良心と戦って),自分の世代を区別することも,出来ません。かたや,「日常生活を礼拝にする様々な,天晴な礼拝と,そういう礼拝から生まれる,様々な天晴な習慣」を身に着けることができます。というのも,生きている実感を法則にして,日常生活の礼拝で,天晴れな人生の習慣を身に付けるからこそ,聖書の神様から,とても良いと共に徹底的に肯定されて,不動にされ,神様の恵みにさらに恵まれ,独立していられる人物になれます。この様な人物に青年がなりますと、自分たちの仲間(人間を上下2つに分けるウソから生まれた、上に立つ自分たちの仲間)の求めに,心から応えられますし,仲間内でエリートにもなれます。その時にだけ,青年は大人になる階段に入れます。大人になるとは,未来を眼に見える様に出来る,ということですね。その未来で,本物の大人は,子ども達の生活の中で,日常生活を礼拝にする礼拝の司式をする者になるのですし,おそらくは,子ども達の生活の中で,日常生活を礼拝にするのに相応しい場を良く良く見分けることが出来る,ということです。「共に勝ち得た,生きている実感に対する全うな信頼」があれば,日常生活を礼拝にして,自分が生きている実感が発展し続けることの中で発達した,日常生活を礼拝にする様々な原理全ては,世の中に対する唯一無二のイメージの中で一体になりますし,様々な考え方や様々な理想が筋が通ったものにもなります。ただし,実際には,多くの人が,あるいは,強烈に,せかされて成長しなくちゃ,とならなければのお話ですがね。
動物等が,相手を大切にする生まれながらのパターンを互に歓んでやる,お互いに大切に出来る仕組みは,人間には,子どもと青年の時期にだけにしか,当てはまらない,と言われています。人間らしい生き方の中で,十二分に成長するとは,科学技術や政治の仕組みの中で,立場を得る心構えが出来ることですし,自分の仲間の心からの優しさに固有の,決して否定仕切ることなど出来ない,様々な価値やイメージも腑に落ちている,ということです。その様々な価値やイメージは,お互い様に,為にならない輩や,時代遅れ,あるいは,異質なものの考え方を排除することになります。ですから,青年期には,対人関係の中で一心同体になる心の習慣の成長と,その文化がもつ,日常生活を礼拝になるパターンに浸透している,「実感から生まれる哲学の作り方」を受け止める準備とを育む,特別に良い分かれ道をハッキリと描いてきたんです。人と一心同体になることと,「実感から哲学を育むやり方」が一つになって初めて,青年は,科学技術や歴史の回転方向と,自分の新たな強さとを一緒にすることもできます。それに,創造の場では,この本で記してきた,私が生きている実感を創造する様々な原理を,科学技術の面で満足できる日々の中で,青年が一つに出来た場合や,宗教上,民族上,軍隊上の日常生活の礼拝や行事に青年が参加できる場合は,分かれ道は一心同体になるルールができる準備ができて,一心同体になるルールに忠実ですと,驚くほど聖書の神様に従うイメージができます。ただし,実際に役に立つ心の習慣を心から受け容れることが,基盤になっている場合がおおいものです。その実際に役立つ心の習慣は,見た目には,「人間を上下2つに分けるウソの現実」と映るかもしれません。たほうで,この人生の舞台から外れた生き方を,「聖書の神様と一心同体になることがゴチャマゼにされること」です。これにはもちろん,1つの「生き方」が含まれています。その1つの「生き方」は,モラトリアムという形で,かなり特別に善いあそびによって,「浮かれ騒ぎ」や,試しであっても,「違ってもいい」という既定路線を延長するのに役立つことが許されます。たほうで,モラトリアムは,スピリット,市民生活,生きている実感を法則にすることが,制限されることにもなりますと,はた目には,境界性人格障害,犯罪者,危険な不良,スピリットを蝕む熱狂に見えるものです。生き生きとした命漲る生命力が「聖書の神様のお告げの中でハッキリと示されること」は,どれも少しは,ごっこ遊び(人を馬鹿にするごっこ遊びにもなりますし,乱暴なごっこ遊びにもなります)になります。ごっこ遊びは警告として役立つのは,若者は大人に従って当然と考えてはならないし,それは,繰り返し若者が元気を取り戻して立ち上がることができることをハッキリと示す約束があって,はじめて可能になることだ,ということです。歴史的に,聖書の神様と一心同体になって,自分が確かにされることが空っぽになるのは,私が生きている実感を生み出す,聖書の神様と一心同体になるかどうかの分かれ道が,全体的な規模で悪くなり,生きている実感が新鮮にされて,経済的な変化や科学技術の変化に追いつくことによってのみ,善くなる時です。これこそ,ルターのついて書いた私の本(訳注:青年ルター)の中で,私がハッキリと申し上げようとしたことでした。自分が空っぽになる源は,現代史の革命期を通して,辿ることができますが,私どもは,全体主義が,思想的に立たせる,日常生活を礼拝にする礼拝の中に,若者世代を巻き込んでいったことの中に,自分が空っぽになる源があることがわかります。全体主義が青年を巻き込んで,ものの見方を押し付ける日常生活の礼拝も,ヌミノースの驚き感激する原理(ヒットラーの顔),ルールを言葉にする原理(「反アーリア的輩」を声高に「厳罰にしろ」と大合唱),ごっこ遊びの原理(様々な行列に踊りに集会),キッチリと振る舞う原理(整然とした軍隊に様々なマス・スポーツ)が,大きな舞台で演じられます。若者にものの見方を押し付けるやり口は,若者世代全体に,ものの見方を1つにさせようとしますし,それは,若者ひとりびとりに絶え間ない変化にさらすことになりますし,実際に,すべての伝統的な様々な価値は,「御免こうむりますと言いたくなる対象」となります。
結局のところ,日常生活を礼拝にすることが陽気で楽しいを作り出すことを証明するものは,あらかじめ,心導かれて,共に豊かにされてきた,心響き合わせてもらった若者の育ちの良さと,日常生活を礼拝にされることなく育ち,日常生活を礼拝にする,別の様々な礼拝も見通すことができない若者の育ちの悪さとを比べることが一番でしょう。日常生活を礼拝にすることが陽気で楽しいを作り出すことが約束するものは,文字通り,他の人も共に,その人の≪私≫が生きている実感を等しく新鮮にして心から歓びながら,≪私≫が生きている実感を新鮮にすることです。幼稚な悪い良心を手塩にかけて育て,大人の自由な善い良心にします。それは,2人が共に,悪いパートナーにはサヨナラして,あるいは,聖書の神様の命が一巡する場合は,賢慮が働いて,心から優しい善いパートナーが,自分を空っぽにして,互いに大切にし合うことが実現することから,善い良心が育つわけです。理想的な様々なイメージと共に一心同体になりますし,身に着けた正しい振る舞い方を共に良しと認めます。
このシャロームが実現する全体像を眺めてみる中でハッキリするのは,日常生活を礼拝にする「戦争への道」が,歴史を通して果たしてきた役割です。間違いなく,繰り返し起きた様々な戦争は,日々礼拝を繰り返したいと願うニーズを,戦争による礼拝に捻じ曲げてきました。
戦争は,日常生活の中に源があることがわかります。
さっきのエリクソンの邦訳とも被りますね。
不思議。
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Identity and the life cycle 『神様と一心同体になること と 神様の命が一巡すること』 p.77の,下から7行目からです。 その前も,ご一緒に。
≪私≫が生きている実感を法則にすること 対 ≪私≫が生きている実感に恥じて隠すけれども,それが親がいけないのか自分が悪いのか迷うこと
スポックの本『1歳の赤ちゃん』,『上手な子育て』で論じられている項目を見渡してみると,私どもは,我が家には,このような問いを発する被造物達はいなくても,自分が子どもと様々な言い争いをして,勝ったり,負けたりしている現実を思い起こすことができますでしょ。
元気いっぱい
冒険したい気持ち
もっと頼りたいし,同時に,もっと1人でやりたい気持ちになる。
あちこちに動き回る赤ちゃんのために,家の中を配置換え
事故を防ぐ
赤ちゃんの手の届くところに,毒になるものを置かない時
自分のことは自分でできるようにするにはどうすればいいのか?
物を落としたり,投げたりすること
子ども達が自分の攻撃的な気持ちを収めるようになる
噛みつく人間
寝る時間を良い時間にする
夜になっても寝ようとしない幼子
私が選んだ項目は,ここで示した様々な問題の一覧表と範囲をお伝えしようとしています。ただし,ここでは,スポック先生の優れたアドヴァイスやバランスの良さを検討しません。このバランスの良さは,とても分かりやすく,しかも,事実に即して描いている点ですが,子育ての場は,ほかの創造の舞台でも,この優れたアドヴァイスとバランスの良さに従って生きるのが善いでしょう。それにもかかわらず,不吉な様々な力の兆しが1つあります。その不吉な力は,方や縛り付けられた,方や解き放たれますが,特に,対等でない親子2人の意志がぶつかり合う時には,子どもの不吉な力は我慢させられるのに,親の不吉な力は解き放たれてしまいます。というのも,その子どもは,自分の暴力的な衝動と釣り合いませんし,親子も互いに対等ではありませんから。
この創造の舞台で,何よりも大事なことは,筋肉が育つことと,「我慢する」と「手放す」という互いによくぶつかり合う行動パターンを,ピッタリと一体とすることに,母子2人が共に従うことができること(できない,と感じるのも,母子2人になります)と,まだまだ人に頼りっきりの幼子が,自分が生きている実感を生きる指針にして,歓んで生きていく意志を体得するのに,途轍もなく重要だ,ということです。
精神分析が私どもの言葉を豊かにしてくれたのは,「お尻の穴」という言葉です。「お尻の穴」とは,特別な心地よさと強情さを示し,この創造の舞台では,様々な出す所と関係します。お腹や膀胱を,できるだけ空っぽにする全ての道は,「心地よく感じる」ご褒美で始まるものです。上手にできると,「上手,上手」と言われます。このご褒美は,人生の始まりにおいて,お腹が毎日仕事をする時の不快感や緊張を埋め合わせるはずです。赤ちゃんとお母さんが共に育つと,できるだけ自分を空っぽにすると,必ず「心地よく感じる」ご褒美をもらえる体験が必要不可欠な,状況を好転させる働きとなります。素晴らしい立ち姿で立つことができて,筋肉が創造のために整えられると,≪私≫が生きている実感に法則にして心から歓んで生きる意志を実感通りにノビノビと自由に生きる力が育ちますし,≪私≫が生きている実感を零して,捨て去る力も育ちます。しかし,母子の出会いを研究する新たな評価は,母子を固く結びつける様々な絆があることに限りません。実際に,創造する唯一の力,強い影響力のある上等な唯一無二の生命力(である,聖書の神様)は,≪私≫が生きている実感を零して,創造の目的から的まずれにする力も育てますし,≪私≫が生きている実感を実感通りに見守ったり,出して生きたりすることを,代わりばんこにする力も育てます。
お尻の穴に関する限り,この点では,全ては,文化的状況がお尻の穴を大切にするかどうか次第です。両親が,お尻の穴が出したり引っ込めたりする行動の仕方を大切にしないで,年上の子ども達が,よちよち歩きの子どもを茂みに連れていくのに任せて,お尻のことはキチンとしたいと思う気持ちが,目上の子ども等の真似をしたいと願う気持ちと一致するようにする文化もあります。私ども西洋の市民社会,特に,市民社会のかなりの階層の人たちは,お尻の穴のしつけを,かなり厳格に考えます。まさに機械化の時代によって,機械みたいにしつけ,間違いなく働き,いつもきれいで,時間通りで,しかも,無臭の身体であることが理想である,と見なされるようになっています。それに加えて,大なり小なり,意識的な正しいと思われているのは,赤ちゃんの時に厳格に躾けることは,「時は金なり」とされ,規律正しいこと,時間通りであること,成功することが持て囃される機械化の時代の波に乗ってうまく立ち回れる人種になるためには,絶対に必要なことだ,ということです。これが意味することは,私どもは,厳しく躾け過ぎだ,ということです。つまり,子どもは,躾なければならない動物か,設定し,調子を調整しならない機械みたいに思っています。たほうで,実際に,人間らしい品性は,少しずつしか成長することができません。いずれにせよ,私どもが臨床をしていて分かることは,私たちの時代の精神過敏な人は,「過剰に強迫的な」タイプだ,ということです。「過剰に強迫的な」タイプの人は,下のことだけではなくて,愛情,時間,お金の点も,ケチで,がめつく,細かいもんです。うんちとオシッコのトレーニングもまた,私どもの社会はやらなくてはならないことがたくさんある中で躾をする際に,一番厄介な躾になっています。
それじゃあ,何で,お尻の穴の問題が,大切で,しかも,困難なのでしょうね?
お尻の穴,という身体部位は,身体部位の中で,互いにぶつかり合う2つの力の上で,ぶつかり合いから生まれる,私が生きている実感がハッキリと不動にされることに,一番役立ちます。というのも,第一に,お尻の穴は,互いに反対のことを言い合う行動パターンのための身体の部分だからです。互いに反対のことを言い合う行動パターンとは,すなわち,「尻込み・我慢」と「敷居を超え出る」が代わりばんこになるものです。第二に,括約筋は,締め付けると緩めるの2重の意味のある筋肉, 曲げると伸ばすの2重の意味がある筋肉だからです。ですから,この1歳前後の舞台全体が,≪私≫が生きている実感を生きる指針にするための,1つのぶつかり合いになります。というのも,1歳前後の赤ちゃんが,自分の足で立つ準備ができているように,赤ちゃんは,自分の世界を,「私は」と「あなたは」,「私に」と「私のもの」という話し言葉で,正確に描きますから。お母さんであればどなたでも知っていることですが,子どもは1歳前後の舞台では,ビックリするほど素直なのは,自分がすべきことを「望もう」と心に決めた場合です。ところが,1歳前後の赤ちゃんが,すべきことを望むようにするのに頼れるお祈りを見つけられません。お母さんであればどなたでも知っていることは,擦り寄ってくるときには,とても愛らしいのに,大人を押し退けるときには,とても冷たい,ということです。1歳前後の赤ちゃんは,いろんなものを大事に貯め込見がちであると同時に,いろんなものをポイと捨てがちです。いろんなものを独り占めにしたいのに,そのいろんなものを窓から捨てたいのです。ですから,こういった,一見相矛盾する様々な傾向は全て,我慢と出すという決まった行動パターンのもとに含めます。
母子の間で,あ互いに,相手の行動パターンに自分の行動パターンを合わせあうことを生み出すことが,一番厄介な試練に直面します。神様の命の回転とは逆向きに,あまりにも厳格に,しかも,あまりにも早期に,お母さんが外から赤ちゃんの行動パターンを,コントロールするお母さんの気持ちが,赤ちゃんが自分のお腹や他の働きを,歓んで,自由な選択によって,「一つ一つ」自分でやろうと努力する赤ちゃんの気持ちを奪うことの上に立つ結果になりますと,その赤ちゃんも,写し鏡になった母子2人も,同じ反抗の顔と,同じ満たされない顔をします。自分の身体が言うことを聞きませんし(よく自分のお腹が心配になります),外側にいる人も当てになりませんと,赤ちゃんは,元に戻るか,あるいは,偽りの前進によって,満足し,命が回転するようにせざるを得ません。別の言葉で言えば,その赤ちゃんは,生まれたばかりの時の,最初の口を介したコントロール,すなわち,自分の親指をしゃぶったり,不機嫌になり,とても手がかかるようになったりしますし,,敵になったり,わがままになったりして,ウンチ(後には,汚い言葉)を爆弾として使います。あるいは,赤ちゃんは,生きている実感に従って,誰にも頼らずに何でもできるような恰好をするようになるんですが,実際には,これまで頼りになる人が,いた試しがないんです。
この舞台では,ですから,人を大切に思う気持ちと人を悪く思う気持ちの割合や,人と力を合わせることとわがまま勝手をすることの割合,それに,自分が生きている実感通りに自由に生きられるのか,それとも,自分が生きている実感を押し殺して生きるのか,の割合を決める分かれ道になります。「≪私≫が生きている実感を大切にしながら,≪私≫が生きている実感が正しいことを確かめる」心の習慣から,≪私≫が生きている実感を生きる指針にすることと,前向きに生きる気持ちが生まれます。筋肉とお尻の穴がうまくできない感じと,自分のことを自分でできない感じと,親が口うるさい感じから,≪私≫が生きている実感を生きられないのが自分のせいなのか親のせいなのか迷う心の習慣と,≪私≫が生きている実感を生きることにいつも恥じて隠す心の習慣が生まれてきます。
≪私≫が生きている実感を生きる指針にすることを育てるためには,赤ちゃんの時期に,自分自身と世の中を根源的に信頼する信頼が不動になるように育てられ,確信をもって続けられるようにしなくてはなりません。≪私≫が生きている実感を習慣にできるような赤ちゃんは,≪私≫が生きている実感と人様を根源的に信頼する聖書の神様に対する信頼(聖書の神様を信頼する根源的信頼感は,決して失うことのない天国の宝物ですから,最初の舞台の諍いから自由にしてくれます)は,急に強く,いいものが欲しくなっても,なんでも独り占めしたくなっても,頑なに,嫌いな人を押し除けたりしたくなっても,危険にされさることはないでしょう。「辛抱強くて,一つもウソのない真実な約束」が守って下さるおかげで,赤ちゃんは,まだしつけられていない分別が迷ったり,思い煩ったりすることも,ありませんし,必ず神様の命が一巡することを信頼して,めげずに信頼する立場に踏みとどまることもできますし,人に自由をプレゼントすることもできます。しかし,周りの大人たちは,その赤ちゃんが「自分の足で立つ復活」を願うように,赤ちゃんを手助けしなくてはなりません。それは,その赤ちゃんが,いつも,とても悪いままに,自分が寄る辺なく独りぼっちにされたと感じることがないようにするためです。いつも,とても悪いままに,自分が寄る辺なく独りぼっちにされたと感じることを,恥,あるいは,2番目の信頼の失敗,と呼びますが,それは,「善悪どちらにも取れる」ことですから,私どもは「迷い,思い煩い」と呼びます。
「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」は,子どもっぽい気持ちで,まだ十分に研究されていません。恥は,丸裸にされて,人から見られていることに気付いたことを前提にしています。一言で言えば,自分の行動を意識している,ということです。見られているのに,見られる準備ができていないんです。ですから,私どもは,まだ服もろくすっぽ着ておらず,しかも,お尻丸出しの状態で,寝間着姿で,人から見られる恥ずかしい夢を見るんです。「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」は,赤ちゃんの時には,自分の顔を埋めようとする気持ちに現れますし,地面に,その場ですぐに,自分の顔を鎮める気持ちに現れます。この「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」になることがある,ということが,何かを教える時に,「恥ずかしい思いをさせて,≪私≫が生きている実感を隠させる(訳注:忖度)」といったやり方で,乱用される場合がとても多いんです。これは,もっぱら,幼稚な大人達がやらかすことです。恥をかかせて,自分が生きている実感を隠すようにさせると,後でお話しすることになる,一層破壊的なことが多い,ダメだぁ,という気持ちになります。恥をかかせて,自分が生きている実感を隠すようにさせることが破壊的であることは,いくつかの市民社会の中では,様々な工夫を凝らして「面目を保つ」ことと引き換えになっています。子どもに恥をかかせることは,自分はダメな子なんだと実感する,次第に強まる実感を悪用するんです。自分はダメな子なんだという実感は,矛盾しているんですが,その子が立ったり,その子が,大きさや力を人と比べることができるようになったりするにつれて,大きくなります。
恥をかかせ過ぎますと,結局は,キチンとやりましょうという気にはなりません。むしろ,人が見てないところで,こっそりやればいい,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心させることになります。アメリカの民謡に,一人の殺人犯が,人々の晒し者になって,絞首台の露となった話がありますが,その場にふさわしく,恐れたり,恥じ入ったりする代わりに,見物人たちを咎めだて始めて,終いには,ありとあらゆる罵るような言葉を浴びせかけましてこう言いました「目が潰れちまえ」と。1歳2歳の幼子は,我慢ならないほどに恥をかかされますと,「目が潰れちまえ」と同じような意味で,信頼できない気分になるものです(その気持ちを言葉に出す勇気も言葉もありませんが…)。こんな好ましからざることに触れたのは,子どもでも,大人でも,自分自身,自分の身体,自分が必要な様々なこと,自分がしてほしい様々なことが,ダメで汚らわしいと見なすように押し付けられても,我慢にも1つの限度がある,ということですし,自分のことをダメだと裁く相手が間違ってないことを信頼するのにも,1つの限度がある,ということです。時には,立場が逆転しがちなもんで,他にやり方があることも忘れて,自分を裁く人たちが今ここにいる,っていうことそのものを悪と見なすようになりがちです。日々裁かれて,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心したものにチャンスが回ってくるのは,日々裁く者たちがいなくなった時か,日々裁く者たちから離れることができる時です。
反抗的な子ども,犯罪を犯した青年は,恥をかかされすぎて,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心した人が多いんですから,その悪の道にその子らを至らしめた様々な条件をよくよく調べてみるに値しますね。
繰り返します。筋肉が発達しますと,本来は1つなのに(訳注:ぶつかり合っている)人との関係の2つの仕方,「手放さすに待つ」と「手放す」,を実験する舞台ができます。すべての心の習慣について言えることですが,この根源的な諍いから,結局は,人は敵と見なして(見通して),敵対する心の習慣も生まれてきますし,人は心優しい人と認めて(見通して),心から優しくする心の習慣も生まれてきます。このように,「手放さずに待つ」ことが,破壊的で,しかも,残忍に本心を隠させ,押さえ付けることにもなりますし,心から人を大切にする1つもモデルになりますから,(訳注:結婚式の誓いの言葉のように)「毎日一緒にいます」ということになります。「手放す」ことも,破壊的ないろんな力を,敵討ちみたいに,発揮することにもなりますし,鷹揚に「見逃してやる」ことや「そのままにしておく」ことにもなります。人格形成の視点から申し上げれば,「手放さずに待つ」ことと「手放す」ことの生き方は,良くも悪くもなります。このぶつかり合う2つの生き方の値打ちは,敵対する生き方が,敵や仲間,あるいは,自分自身に向けられるのかどうかにかかっています。
この最後に名付けた危機は,精神科医に一番よく知られている危機です。自由に生き方を選ぶことを,生きている実感を法則にする中で実現できるように,ゆったりと,上手に手伝ってもらうことができない,あるいは,生まれて1年間の間に,生きている実感とそれを認めないお母さんを信頼する気持ちが弱められますと,そのビクビクして傷つきやすい(訳注:発達トラウマ障害の)子どもは,良いお母さんとそうでないお母さんを区別したい強い気持ちと,お母さんに手で触りたい強い気持ちを,自分に向けるようになることがあります。そのビクビクして傷付きやすい発達トラウマ障害の子どもは,「生きている実感を失う」ようになりますし,「できそこないの良心」が伸びてしまいます。繰り返し遊ぶことで様々なものを試すために,様々なものを手に入れるのではなくて,自分自身が繰り返すことそのものに囚われるようになります。すべての物事が「自分が思った通りに」あるように願うのですが,それには,決まった順番があり,決まったテンポがあります。このように子どもっぽい囚われによって,たとえば,ブラブラすることで,あるいは,様々なやり方にうるさくこだわることによって,その子は,現実に互いに大切にしあうことができないので,様々な場で親や面倒を見る人の上に立つ力を得るようになります。このような中身のない勝利は,お互いに押し付け合う脳の病の,子どもっぽい見本になります。お互いに押し付け合う脳の病が大人の性質に及ぼす影響はどうかといえば,その影響は,すでに指摘した古典的な強迫的な性質になかに観察されます。付け加えなくてはならないのは,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心してやったことを,ゴマカシて逃げ切りたいと願う願いに支配された性格の人です。しかし,ゴマカシで逃げ切りたいという願いは叶いません。ビクビクして傷付きやすい発達トラウマ障害の子どもは,人を避けるようになりますから,その「できそこないの良心」のために,何物もゴマカシて逃げ切ることができませんし,生涯にわたって,いつも,≪私≫が生きている実感を恥じて隠し,いつも身構えていますし,いつも見られることを恐れます。あるいは,ほかに,私どもが「忖度(譲りすぎ)」と呼ぶ仕方で,発達トラウマ障害の子どもらは,生きている実感を生きる指針にすることに逆らうようになります。しかしながら,生きている実感を生きる指針にして実際に歓んで生きる,という事は,おくびにも出しません。
しかし,障害についていろいろ考えるところから,小児科医の実際に役立つアドヴァイスを伝える見出しを研究することに戻る時です。このいろんな見出しは,次のようになります。すなわち,この1歳2歳の舞台の子どもに忠実であれ,忍耐強くあれ,そうすれば,その子どもも,自分自身に忠実になれますし,忍耐強くなりますよ。その子どもは,生きている実感を法則にできる人間であることに心満たされるようになります。時には,何かをやっても,見つからずに済む,ということもありますけれども。
それじゃあ,なぜ,この心の中にあり,この生まれながらに備えられている,生きている実感を生きる指針にすることを育むために何をすべきなのか,というを,たとえ,それが分かったとしても,事細かに親たちに伝えないんでしょうか? その答えは,生きている実感を法則にすることが,人間らしい価値になる時には,この生まれながらに備わっている,生きている実感という繋ぎ目を作り出すやり方,あるいは,それを何とか作り出す方法が,どなたにもわからないからです。私自身の専門分野の精神分析は,物差しに合わない程,あるいは,理に叶わない程,自分はダメだという感覚が過剰になることを特に研究してきましたし,自分はダメだという感覚が過剰になると,子どもが身体とバラバラになるように母親らが見当違いに関ることを研究してきましたが,子ども達にしてはならないことを,少なくても,ハッキリと言葉にしようとしました。しかしながら,こういった言葉は,あいまいな警告から,とても厄介な決まり事を作り出しがちな人の中で,子どもたちの上に立つ様々な禁止事項を次々に作り出すことになりがちです。関わる中で,私どもは,「どんな力」が働くと,子どもが「とても優しいこと」を実現することに「ならない」ことは,少しずつしかわかりませんから。
この世の人々が確信しているように見えるのは,(その人の立場から見て)子どもを正しい人にするためには,1人の子どもの人生に,恥,迷い,ダメだぁ,おそれを感じる気持ちを,言ってることとやってることが一貫する形で,分からせなくちゃ,ということです。ただ,その子育てのやり方はいろいろです。文化によって,幼いころからやる文化もあれば,遅くからやる文化もありますし,あるいは,知らず知らずのうちにやる文化もあれば,徐々にやる文化もあります。十分な比較ができるまでは,間違った信念をさらに増やすことになりがちですが,それは,心の病を「0にしたい」と願いながら,心の病の条件に見合う確かな要因についてハッキリとは分からないからです。ですから,私ども次のように言っています。はやく離乳させなきゃぁ,と焦らないで。早くしつけをしなきゃぁと,慌てないで。しかし,早すぎる躾,遅すぎる躾とは何か,という判断は,私どもが避けたいと願う心の病になることだけではなくて,私どもが作り出したいと願う様々な価値によっても,違ってきます。あるいは,もっと誠実に申し上げれば,躾の良し悪しの判断は,私どもが信じて従っている勇ましく高尚なる生涯によって決まってくるのです。というのも,私どもがいくらコマゴマとしたことまで気を配ってやったとしても,その子どもが一番敏感に感じ取るのは,私どもが信頼して忠実に従っている生き方,心から自分と人を大切にして,人と共に仲良く働き,不動で筋が通った人格を私どもに培わせている存在(訳注:聖書の神様,あるいは,善き良心),また,自分と人を心から激しく嫌って,何かにつけて心配し,人をわけ隔てする人物に仕立てあげる存在(訳注:悪い良心),なんですから。
もちろん,エピジェネシスの視点,すなわち,≪私≫が生きている実感を不動にする,聖書の神様が天上から,創造の初めに予定した視点から見て,避けなくてはならないことも,2つ,3つはありますよ。忘れずに置きたいのは,およそ新しい発達は全て,発達そのものの特別な傷を伴います。たとえば,生後8か月あたりでは,赤ちゃんは,自分が「お母さんと離れ離れ」であることに,どういうわけか,殊の外,敏感なように見えますね。ですから,その時期の赤ちゃんは,お母さんではなくて,≪私≫が生きている実感を法則にすることが,心の中で重心を増すようになるわけです。同時に,その時期の赤ちゃんは,お母さんの特色や,お母さんが今ここにいてくれることや,お母さん以外の人が見られないことも,よく分かるようになるんです。1歳の時期に,お母さんが突然居なくなることや,お母さんが長期にいなくなることは,敏感な赤ちゃんは,お母さんから離れ離れにされ,見棄てられ,恥落ち込み,恥をかかされて,激しく怒る経験をすることになりますし,不安が強まり,人を避けるようにもなります。繰り返しですが,生後2年目の最初の3ヶ月、13ヶ月〜16ヶ月に,もしも全てがうまく行けば,その赤ちゃんは,前の章でお話しした,生きている実感を話し言葉にして法則にすることを,ちょうど覚え出す頃です。この時期に尻の躾を始めると、赤ちゃんは、自分の力と自分が決めたことに逆らうようになります。というのも,その赤ちゃんは,芽生えたばかりの,歓んで生きる気持ちが挫かれたと感じているように思うからです。赤ちゃんがお母さんから離れ離れにされ、捨てられ、落ち込み、恥と激しい怒りを感じずに済ませることは、赤ちゃんを躾けることよりも、はるかに大切です。というのも、諍いから生きている実感を法則にすることが生まれ出るのに、時がありますし、生きている実感を法則にすることを一方的に犠牲にしても危うくされなくなるにも、時がありますから、というばかりではありません。心から犠牲になる選択をする時期は、自分が生きている実感を生きる指針にする心の習慣が身に付き、繰り返し元気付けられて、素晴らしい心眼を身に付けた「後」だから、ということは、当たり前の話だからですよ。
人格の響き・人格の感度の最大の分かれ道の時期に,素晴らしく成長する部位が安定するのは,生後13ヶ月〜16ヶ月です。心が乱れる避け難い原因は,1つの出来事ではなくて,その赤ちゃんの生き方を乱れさせるたくさんの変化が重なるからです。一歳過ぎの赤ちゃんが他と異なる特別な,唯一無二の成長期になるのは,その家族が新たな立場になる時です。おそらくは,一歳過ぎの赤ちゃんが,最初の言葉を繰り返し宿す様にならざるを得ないのは,最初の言葉を教えてくれたおばあちゃんが亡くなった時だったでしょう。お母さんが躓くと,お母さんが無力になるのは,この時期に思いがけず,妊娠し,その代わりに,赤ちゃんのためになることが出来なくなるからです。人生や人生の曲がり角に、正直で真っ直ぐに,現在進行形で元気をくれる魂が,聖書の神様から,与えられるならば,躓くようなことがあっても,手ずから解決出来るのが普通ですが,それは,必要とあらば,小児科医やその道に熟達した者の手を借りる場合もあります。しかし,体験から学んだ者の務めは,(ブランク・フレマント・スミスを引用しましたように)「その場に行くことが許され,本人もその場に行きたいと願う,生まれ変わる場を仕込むこと」であるはずです。というのも,最後に子どもが親の手から離れた時には(子どもを躾ける中のかなりの研究のおかげで,私どもが確信しているように),親が幼い子どもに認めてプレゼントできる,生きている実感を話し言葉にして法則にする心の習慣の,心からの優しさと,その程度は,親自身が自分の人生から引き出している,自分が独立自尊している,という誇りであると同時に,自分が独立自尊している心の習慣次第です。思い出していたただきたいのですが,赤ちゃんが生きている実感とお母さんとを信頼する心の習慣は,親が聖書の神様を,生活の中で不動に信頼する信頼の写し鏡であるように,幼い子どもが生きている実感を法則にする心の習慣も,親自身が,人の顔色を窺ってその場しのぎのバラバラな生き方は已めにして,生きている実感に従って実際に生きている誇りの写し鏡になります。
「最初の口の」人品にも当てはまったことですが,命がぶつかり合ったままの強迫的な人品には(精神分析の論文では「お尻」の人品にもよく戻りますが),生きている実感のルールに合っているものと,生きている実感のルールに反したものとがあります。生きている実感を認め合って命が一巡する部分と上手に一体になっていれば。命がぶつかり合った間の強迫的な人品の中にも,生きている実感に従って,秩序や時間や穢れないことが守られることを大切にする創造の源を,日常生活を礼拝にする司式をするのに,役立つものもあります。問題なのは,生きている実感を話し言葉にして生きた習慣にし続けることができる,ということです。私どもは,生きている実感を話し言葉にして生きた習慣にすることによって,様々な関係を手に負えるものにしたいものです(手に負えないものにするのではなしに)し,あるいは,そのルールによって,ルールを作り出す者がより善くなりたいと願うものでしょ。しかしながら,個人の暮らしでも,集団の暮らしでも,よくあることですが,ルールになった習慣を記した書き言葉が,習慣を創造した,聖書の神様のスピリットを台無しにしてしまいます。
赤ちゃんが生きている実感とお母さんを根源的に信頼することは,宗教の習慣と関係付けてまいりましたでしょ。バラバラにすることなど到底できない人間ひとりびとりが,様々な関係を互いにピッタリと息の合うものにする際に,自分の「生きている実感を生きた習慣にすること」を話し言葉でハッキリと言い表したいと願う最深欲求は,聖書の神様の命が一巡して,互いに大切にしあう中では,「聖書の神様が人のスピリットを復活させて立たせて下さるルール と 聖書の神様が互いにピッタリと息を合わせるようにして下さる秩序」の創造の原理によって,心から大切にされているようですね。この「ルールと秩序」の創造の原理は,最高裁判所においてばかりではなくて,日常生活においても,ひとりびとりに賛成するルールとひとりびとりを制限するルールのどちらにルールが傾くのか,の割合,「ねばならない」と「やっても善いよ」のどちらに傾くか,の割合となります。私が生きている実感を生きた習慣にする心の習慣は,子供のころの2番目の時期(訳注:1歳2歳の時期)に,確立して始まるものですし,確立し始まることになっていますが,私が生きている実感が習慣になるように元気づけられて育まれるのは,お母さんが,人間らしい正しさを生み出す誇りと,自分が生きている実感を生きた習慣にする独立心を心の習慣としていきていることを示す,1歳2歳の赤ちゃんを手塩にかけて育てるからですし,1歳2歳の頃に育まれた,生きている実感を生きた習慣にすることから滲み出る,心からの優しさは,その後の人生において,失望に終わらない,という信頼に満ち溢れた期待を,1歳2歳の赤ちゃんにプレゼントすることにもなるからです。こうなって,聖書の神様の命が一巡する,互いに大切にしあう関係の中にあるためには,夫婦が大切にしあう関係,労働者の雇用主と大切にし合う関係,親か政治と大切にし合う関係,が必要です。親たちが,様々な関係の中で大切にされることによって,親たちは,人との関係の中での立ち位置を,まるで聖なる儀式によって導かれるみたいに大切にされる中で,生かされていることを誇れるようにになれます。親たちが,様々な関係の中で,生かされていることを誇れる立ち位置に留まるがことさら大切なのは,自分が生きている実感を恥じて隠すけれども,自分がいけないのか,親がいけないのか迷い忖度することのほとんど,1歳2歳の赤ちゃんの時に,大切にされず,大切にされたかはっきりしないことのほとんどは,結婚や,仕事場や,市民生活で,親たちががっかりして失望している結果だからです。このように,あの子ども(訳注:永遠の子どもで,父子聖霊の「子」あるキリスト)の中にある,自分が生きている実感を生きる指針とする心の習慣(アメリカ人は子どもの頃に豊かに育つのが普通です)は,経済的にも,政治的にも,自分が生きている実感を生きる指針にして,持ち味を生かし切る,という気高い生活の習慣の中で,守られることによって,確立することになっています。
家庭は,権威を持って支配する権力に,子ども等を導くかなりの権利を与えると同時に,協力して子ども等を共に導く義務も課します。家庭は,両親が共に従うかなりの義務をルールとして課すと同時に,生きている実感を生きる指針にして,自分のことは自分で決める権利も与えます。しかしながら,この全体像がハッキリしないと,ひとりびとりの人が自分が生きている実感を生きる指針にすることを生み出すはずの大元のために,親も子どもも心病むことにもなりますし,親も子どもも家計を倹約する破目にもなります。たくさんの人が,子どもの頃に,命から,自分が生きている実感生きる指針にする習慣や前向きな生き方やチャンスをしっかりと身に着けることができれても,後年,人間の上に立ち,しかも,複雑すぎて理解できない,様々な組織や様々な機械に自分自身が支配されていることに気づけば,自分が生きている実感を生きる指針にすることを,互いに歓んで認め合うような,真面な人品を育てる助けになっていないことに,腹の底から,いつでも,ガッカリする羽目になるやもしれませんね。すべての偉大な大国は(すべての小国も),現代の暮らしが複雑になり,機械化されていることによって,困難に直面し,より大きなまとまり,より大きな空間,より豊かなお互い様を作り出す様々な課題の中で展開しています。より大きなまとまり,より大きな空間,より豊かなお互い様を作り出す様々な課題が,自ずから,ひとりびとりが互いに大切にしあう役割を繰り返し決めていきます。この国のスピリットにとって大切なのは,いまここを生きるスピリットにとっても同様に大切なことですが,人間はみな平等であることと,人間はバラバラにすることなどできない1つの全体像であることを,より鮮明に意識した意識は,共に心響かせた2人が一体になる中で,2人が共に陽気に楽しむことを創造し続けることから育っていく,ということです。というのも,そうでなければ,次から次へと様々な恐れが湧き上がってくるからです。この様々な恐れは,しばしば,また嫌なことが起きるんじゃないかなぁという不安が大規模なはけ口を見つけるものですし,この恐れは,ひとりびとりは,微かに気づくか,ほとんど気づかないものです。しかし,おかしなことに,その恐れは,表向きは,自分がほしいものや当然手にできると思っているものを,実際に手にしているように見える人の気持ちを掻き乱すものです。自分が生きている実感を生きた習慣にできないことに対する,理性ではどうしようもない恐れに加えて,―(訳注:コール・ポーターの歌みたいに)「僕が生きている実感を縛らないで」という気持ちでしょうね ― 心の中に住んでいる様々な敵によって,自分が生きている実感を体感しながら歓んで生きたいと願う根源的欲求の中にある,ガラガラと雑音を立て,生きている実感の透き通った声を邪魔するものに対する恐れもありますからね。また,自分が生きている実感を習慣にして生かして関わりを始めることにおいて,繰り返し縛られますし,互いに縛られることに対する恐れ,おかしなことに,それでも上手に自分をコントロール出来ないことに対する恐れ,どうしたらいいのかも分からない恐れもあります。もちろん,こんなにたくさんの様々な恐れは,共に預かった人と人が心響く関わりをするやり取りの中や,力や救いやホッとする気持ちを求めてもがく,あのもがきの中に,もともとある危機をキチンと評価することに基づいていますけれども,この様々な恐れは,心と脳が繋がらない病気や心と身体が繋がらない病気の原因になるように見えますし,他方では,戦争へと誘う鬨の声を簡単に受け入れることにもつながります。戦争へと誘う鬨の声は,忖度と理にかなわない同調によって,様々な不安を和らげることができると約束しているかにみえるものですから。
ですから,不安をあおり,戦争に誘う鬨の声,安倍詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちのうたい文句は,破滅への誘いです。