マハトマ・まど・みちおさんの言葉から
人は
どこ
から来て
どこ
へ行くのか
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ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
第2章。「心と身体を理解する,革命」,p.30,第5パラグラフから。その前もご一緒に。
逃げられないショック
トラウマストレスに関する,なかなか消すことができない問いに心ふさがれたまま,私は脳神経科学という新たな学問分野が,ある種の答えをくれるかもしれない,と考えるようになりまして,神経心理薬理学会(ACNP)の学会に参加し始めました。1984年,ACNPは,薬の開発に関して魅惑的な講演をたくさんしましたが,私が乗る予定のボストン行きの飛行機まで残り数時間になったとき,コロラド大学のスティーヴ・マイヤーのプレゼンを耳にしたんです。スティーヴ・マイヤーは,ペンシルベニア大のマーティン・セリグマンの共同研究者でした。マイヤーの題目は,動物の中にある,身に沁みた無力感でした。マイヤーとセリグマンは,檻に入れられた犬達に,痛い電気ショックを繰り返し与えました。マイヤー等は、この状態を「逃げ出せないショック」と呼びました。犬の愛好家なので,こんな実験は,私自身には出来なかったろうとは、分かりました。しかし、私が関心を持ったのは,こんな残酷な仕打ちがその動物達にどんな影響があるのか,ということです。
様々な電気ショックをやった後で,研究者等は檻の扉を開けて,その犬たちにまた電気ショックをお見舞いします。電気ショックをやられずにきたコントロール群の犬たちは,すぐに檻から逃げ出しましたが,逃げられない電気ショックをやられてきた犬たちは,扉が広々と開いていても,一度も逃げようとする素振りもしませんでした。― 逃げられないショックをやられた犬たちは,ただそこに寝て,クンクン鳴いて,ウンチをするだけでした。逃げられるチャンスがあるだけでは,トラウマを負わされた動物や人間を自由にしてくれません。マイヤーとセリグマンの犬たちみたいに,トラウマを負わされた人間は,あきらめている人が多いんです。新しい選択をリスクを冒してまで選択するよりも,体験したあの恐怖に取りつかれたままでいるんです。
私はマイヤーの説明に釘づけにされました。マイヤーらが犬にやったことは,トラウマを負わされた私の患者さん達に起こったことに他なりませんでしたから。トラウマを負わされた患者さん達も,オゾマシイ自己喪失という心の傷を押し付けて来た人(もの)から逃げらなかったんです。私は私が治療している患者さん達の心の状態を,ザッと再検討しました。ほとんど患者さんの全員が,何らかの点で,こだわりと動けないことがありましたし,逃げられないことから,逃げようとすることができませんでした。逃げる/戦うの反応が阻害された結果,患者さんたちは,動揺するか,くじけた気持ちになるか,していたんです。
マイヤーとセリグマンが発見したもう1つは,トラウマを負わされた犬たちは,ストレスホルモンを通常よりも大量に出している,ということでした。これでハッキリしたのが,トラウマストレスの生物的な基礎について学びだしていたことでした。若い研究者たち,エール大学のスティーヴ・サイスウィックとジョン・クリスタル,エルサレムのハダシャ医学校のアーリア・シャレフ,アメリカ精神保健省のフランク・バットナムとロジャー・ピットマン,彼はのちにハーヴード大学に移りましたが,この研究者らが発見したのは,トラウマを負わされた人は,実際の危険が過ぎ去った後でも,大量のストレスホルモンを出し続けている,ということでした。それから,ニューヨークのシナイ山病院のレイシェル・エフーダが私どもに突き付けた,一見すると矛盾する発見は,ストレスホルモンのコルチゾールの値が,PTSDでは,低いということでした。彼女が発見したことの意味がハッキリしたのは,ストレスホルモンのコルチゾールは,ストレス反応が終了したことをづけるもので,「もう大丈夫」というサインを送るものであることが分かった時でしたし,PTSDでは,身体内のストレスホルモンが,脅威が去った後も,通常のレベルに下がらない,ということが分かった時でもありましたね。
理想的に言えば,ストレスホルモンのシステムは,脅威に対するドンピシャの反応ですが,すぐにいつもの状態に戻ります。PTSDの患者さんでは,ストレスホルモンのシステムは壊れて,バランスが取れなくなります。戦うか,逃げるか,凍り付くかの信号が,危険が去った後も続いてしまいます。それは,犬の場合と同じで,PTSDの患者さんも,ストレスホルモンが標準レベルに戻りません。それどころか,PTSDの患者さんは,ストレスホルモンが出続けることが,どうして良いのか分からず,大人の言いなりになって右往左往したり,訳の分からない恐怖に襲われたりすることになり,長年,健康に非常に悪影響を与えることとなります。
その日に予定の飛行機に乗り遅れたのは,スティーヴ・マイヤーと話し合わなくてはならなかったからです。マイヤーのワークショップにおかげで,自分の患者さんたちの通奏低音となる様々な課題についてのヒントが与えられただけではなくて,その課題を解決してくれるかもしれないヒントも与えられたんです。たとえば,マイヤーとセリグマンが発見したのは,トラウマを負わされた犬たちに,電気ショックから逃げ出す方法を教える唯一の方法は,どうやったら逃げられるのかを身体が体感できるよう,檻の扉を開けて,檻から繰り返し引っ張り出す,ということでした。
発達トラウマ障害の子どもが,自分を失って,大人の都合で右往左往したり,分けの分からない恐怖に襲われたりするのが,檻です。そこから引っ張り出すためには,子どもが楽しんでいる遊びを通して,大人が陽気で楽しくやり取りすることです。
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Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.111,1行目途中から。ここ数日分も,ご一緒に。
青年期と理想:
本当の自分と真実
子ども時代の終わりに,自分自身で見通す「自分がやるべき役割(ミッション)」は,条件さえ良ければ,全ての役割の中で一番確かな役割になります。というのも,ミッションのおかげで,様々な技術の点で,私どもは確かにされますし,私どもは,目に見える仕事の中で,生きがい感を(自分には値打ちがある,と)体感することができます。しかし,思春期は不安定ですし,子ども時代を卒業しなくてはなりませんし,また,時代も不安定ですから,様々にぶつかり合う自己イメージが生まれてきます。それは,私どもは労働者としての顔があるだけではなくて,パートナーとしての顔,親としての顔,市民としての顔も心の中に備えておかなくてはなりませんし,自分はまるで機械がうまく動くため,効率よく役割を熟す為に犠牲にされている,と感じることもある時代と同じです。私の他の本で何とか申し上げたことを手短に申し上げますと,聖書の神様と一心同体になる道は,子ども等が,子ども時代に終わりに,自分自身にとっての意味と,自分にとって大切な人にとっての意味と感じられることが,やり取りがあってピッタリと一心同体になっているのか,次第です。若者が退行しがちなのは,心の中で遊んでいるあの子どもに触れる中で不動にされるためですし,若者が「不登校に(会社に行かなく)」なりがちなのはも,時の中で力を得るためです。あるいは,包括的な様々な哲学的なヴィジョンを掴み取るため,という場合もあります。包括的な様々な哲学的なヴィジョンが人々を強烈に束ねるのは,生きている実感を肯定するヌミニースの原理,生きている実感を話し言葉にする原理,生きている実感に則って遊ぶ原理,生きている実感を正しい生き方にする原理を束ねる,非常に分かりやすいけれども,人の気持ちを省みないことが多い答えで,しかも,自分が思い煩っているこをすべてを,他人のせいにする答えでもある場合です。
ここから,2つの生き方が続きます。かたや,いつも驚きがあり,時として,ショックな場合もある,「歓んで生きる意志から生まれ,歓んで生きる意志を繰り返し育む」「日常生活の礼拝」を,バラバラにすることもできます。その礼拝がバラバラにすれば,青年はお互いの関係を日々礼拝にするもできませんし,持つ立場の大人からも,待たない子どもからを(少し,あるいは,悪い良心と戦って),自分の世代を区別することも,出来ません。かたや,「日常生活を礼拝にする様々な,天晴な礼拝と,そういう礼拝から生まれる,様々な天晴な習慣」を身に着けることができます。というのも,生きている実感を法則にして,日常生活の礼拝で,天晴れな人生の習慣を身に付けるからこそ,聖書の神様から,とても良いと共に徹底的に肯定されて,不動にされ,神様の恵みにさらに恵まれ,独立していられる人物になれますから。この様な人物に青年がなりますと、自分たちの仲間(人間を上下2つに分けるウソから生まれた、上に立つ自分たちの仲間)の求めに,心から応えられますし,仲間内でエリートにもなれます。その時にだけ,青年は大人になる階段に入れます。大人になるとは,未来を眼に見える様に出来る,ということですね。その未来で,本物の大人は,子ども達の生活の中で,日常生活を礼拝にする礼拝の司式をする者になるのですし,おそらくは,子ども達の生活の中で,日常生活を礼拝にするのに相応しい場を良く良く見分けることが出来る,ということです。「共に勝ち得た,生きている実感に対する全うな信頼」があれば,日常生活を礼拝にして,自分が生きている実感が発展し続けることの中で発達した,日常生活を礼拝にする様々な原理全ては,世の中に対する唯一無二のイメージの中で一体になりますし,様々な考え方や様々な理想が筋が通ったものにもなります。ただし,実際には,多くの人が,あるいは,強烈に,せかされて成長しなくちゃ,とならなければのお話ですがね。
動物等が,相手を大切にする生まれながらのパターンを互に歓んでやる,お互いに大切に出来る仕組みは,人間には,子どもと青年の時期にだけにしか,当てはまらない,と言われています。人間らしい生き方の中で,十二分に成長するとは,科学技術や政治の仕組みの中で,立場を得る心構えが出来ることですし,自分の仲間の心からの優しさに固有の,決して否定仕切ることなど出来ない,様々な価値やイメージも腑に落ちている,ということです。その様々な価値やイメージは,お互い様に,為にならない輩や,時代遅れ,あるいは,異質なものの考え方を排除することになります。ですから,青年期には,対人関係の中で一心同体になる心の習慣の成長と,その文化がもつ,日常生活を礼拝になるパターンに浸透している,「実感から生まれる哲学の作り方」を受け止める準備とを育む,特別に良い分かれ道をハッキリと描いてきたんです。人と一心同体になることと,「実感から哲学を育むやり方」が一つになって初めて,青年は,科学技術や歴史の回転方向と,自分の新たな強さとを一緒にすることもできます。それに,創造の場では,この本で記してきた,私が生きている実感を創造する様々な原理を,科学技術の面で満足できる日々の中で,青年が一つに出来た場合や,宗教上,民族上,軍隊上の日常生活の礼拝や行事に青年が参加できる場合は,分かれ道は一心同体になるルールができる準備ができて,一心同体になるルールに忠実ですと,驚くほど聖書の神様に従うイメージができます。ただし,実際に役に立つ心の習慣を心から受け容れることが,基盤になっている場合がおおいものです。その実際に役立つ心の習慣は,見た目には,「人間を上下2つに分けるウソの現実」と映るかもしれません。たほうで,この人生の舞台から外れた生き方を,「聖書の神様と一心同体になることがゴチャマゼにされること」です。これにはもちろん,1つの「生き方」が含まれています。その1つの「生き方」は,モラトリアムという形で,かなり特別に善いあそびによって,「浮かれ騒ぎ」や,試しであっても,「違ってもいい」という既定路線を延長するのに役立つことが許されます。たほうで,モラトリアムは,スピリット,市民生活,生きている実感を法則にすることが,制限されることにもなりますと,はた目には,境界性人格障害,犯罪者,危険な不良,スピリットを蝕む熱狂に見えるものです。生き生きとした命漲る生命力が「聖書の神様のお告げの中でハッキリと示されること」は,どれも少しは,ごっこ遊び(人を馬鹿にするごっこ遊びにもなりますし,乱暴なごっこ遊びにもなります)になります。ごっこ遊びは警告として役立つのは,若者は大人に従って当然と考えてはならないし,それは,繰り返し若者が元気を取り戻して立ち上がることができることをハッキリと示す約束があって,はじめて可能になることだ,ということです。歴史的に,聖書の神様と一心同体になって,自分が確かにされることが空っぽになるのは,私が生きている実感を生み出す,聖書の神様と一心同体になるかどうかの分かれ道が,全体的な規模で悪くなり,生きている実感が新鮮にされて,経済的な変化や科学技術の変化に追いつくことによってのみ,善くなる時です。これこそ,ルターのついて書いた私の本(訳注:青年ルター)の中で,私がハッキリと申し上げようとしたことでした。自分が空っぽになる源は,現代史の革命期を通して,辿ることができますが,私どもは,全体主義が,思想的に立たせる,日常生活を礼拝にする礼拝の中に,若者世代を巻き込んでいったことの中に,自分が空っぽになる源があることがわかります。全体主義が青年を巻き込んで,ものの見方を押し付ける日常生活の礼拝も,ヌミノースの驚き感激する原理(ヒットラーの顔),ルールを言葉にする原理(「反アーリア的輩」を声高に「厳罰にしろ」と大合唱),ごっこ遊びの原理(様々な行列に踊りに集会),キッチリと振る舞う原理(整然とした軍隊に様々なマス・スポーツ)が,大きな舞台で演じられます。若者にものの見方を押し付けるやり口は,若者世代全体に,ものの見方を1つにさせようとしますし,それは,若者ひとりびとりに絶え間ない変化にさらすことになりますし,実際に,すべての伝統的な様々な価値は,「御免こうむりますと言いたくなる対象」となります。
結局のところ,日常生活を礼拝にすることが陽気で楽しいを作り出すことを証明するものは,あらかじめ,心導かれて,共に豊かにされてきた,心響き合わせてもらった若者の育ちの良さと,日常生活を礼拝にされることなく育ち,日常生活を礼拝にする,別の様々な礼拝も見通すことができない若者の育ちの悪さとを比べることが一番でしょう。日常生活を礼拝にすることが陽気で楽しいを作り出すことが約束するものは,文字通り,他の人も共に,その人の≪私≫が生きている実感を等しく新鮮にして心から歓びながら,≪私≫が生きている実感を新鮮にすることです。幼稚な悪い良心を手塩にかけて育て,大人の自由な善い良心にします。それは,2人が共に,悪いパートナーにはサヨナラして,あるいは,聖書の神様の命が一巡する場合は,賢慮が働いて,心から優しい善いパートナーが,自分を空っぽにして,互いに大切にし合うことが実現することから,善い良心が育つわけです。理想的な様々なイメージと共に一心同体になりますし,身に着けた正しい振る舞い方を共に良しと認めます。
このシャロームが実現する全体像を眺めてみる中でハッキリするのは,日常生活を礼拝にする「戦争への道」が,歴史を通して果たしてきた役割です。間違いなく,繰り返し起きた様々な戦争(あるいは,戦争が起きることを期待したり,準備したりすること)は,日々礼拝を繰り返したいと願うニーズを,戦争による礼拝に捻じ曲げてきました。戦争によって,日常生活を礼拝にして,聖書の神様を信頼する信頼を深めることができなくなりますと,心の中にある様々な敵である不安が,人類は1つという歴史の中で,不安同士を互いに神のごとき存在にしてしまうことになりますね。
青年のために予め用意された,やったカッコだけの礼拝にする原理は,「全体主義」です。この「全体主義」は,硬直した様々な考え方の中に,問答無用のお題目を掲げて,熱に浮かされて,人を押しのけて,夢中になることです。この全体主義の道連れは,青年に特有な自己愛的な(訳注:身勝手な、安倍ちゃんみたいな)人や,様々なイデオロギーにありがちな,聖書の神様でないものを,神として崇めることですからね。それから,この「全体主義」は,「よく考えないで従うこと」に退行しているように見えるところもありますし,身勝手な理屈にも見えます。さらに,聖書の神様と一体になる舞台は,「最深欲求」の舞台とも一体です。すなわち,仕事,友達,大切な人との絆の中で,互いに大切にし合うことをし続けることこそが,最深欲求です。この青年期の舞台は,日常生活を礼拝にするリストの中に,「近しくなりたい」原理が加わります。青年期の舞台の,やった格好だけの偽物の礼拝になる側面は,自己愛の舐め合いという,薄っぺらな優しさで,排他的集団の1つの「選民意識」となります。ここで,明らかにしなくてはならないのは,自分たちの好み,身びいき,熱くなった様々な意見,人を傷つける様々な判断を示すことばかりが,大切な人や仕事や友人,あるいは,様々な絆の中で1つになった若者たちの会話や行動をしめてしまう,ということです。自分たちの好み,身びいき,熱くなった様々な意見,人を傷つける様々な判断を示すことは,触れ合う礼拝の場の中で強まっていきますし,その触れ合う礼拝の場は,たとえば,小鳥たちが,「自分達は互いに大切にし合うために創造されました」ということをハッキリさせます。そして,その触れ合う礼拝の場は,真心を込めて大切にし合うことを約束するためなんです。人間らしい暮らしの中では,触れ合う礼拝の場が,大切な印となるのは,ひとりびとりが神様と一心同体になることが,2人を1つの対等な仲間にする程ピッタリと一体にするからです。そして,1つの対等な仲間になった様々な2人から,物を創造する上でも,人を創造する上でも,聖書の神様が一方的に約束してくださった人類みな兄弟というシャロームが実現します。
本物の大人になること と 日常生活を礼拝にする中で子どもを大切にすること
若者の見習い期間から「日常生活を焼き入れする礼拝をして,自由平等友愛の生き方を不動にした」後,「男女が一体になる儀式」によって,若い大人は「許し」を得て,新たな仲間になることができます。それは,1つの生き方を次の世代に伝える,ということです。宗教の日常生活を礼拝にする礼拝は,この点で,徹頭徹尾聖書の神様に従うことですし,自由に率直に話すことでもあります。しかし,大人が習慣にしている礼拝が,自分の文化で英雄,精霊達,神々,様々な王,創立者達,様々な決まりを超越する,あるいは,その上をいく,自分自身のお手本を求めるかどうかにかかわらず,その大人たちがまずしなくてはならないのは,子どものころと青年のころの日常生活を礼拝にする,何気なく日々やっている礼拝を,本気で心響くものに繰り返しして生きて,繰り返し不動にすることです。なぜならば,子どものころと青年のころの日常生活を礼拝にする,何気ない礼拝こそは,文化を1つに一体化させ,秩序を創造できるからです。
子どものころと青年のころの日常生活を礼拝にする礼拝にする何気ない日々のやり取りが,とても大切なのは,秩序と倫理を日常生活の中に創り出してくれるからです。
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Identity and the life cycle 『神様と一心同体になること と 神様の命が一巡すること』 p.79の,第3パラグラフから,3行目途中です。 その前も,ご一緒に。
生きる指針にした≪私≫が生きている実感に従って自ら関わりを始めること 対 ≪私≫が生きている実感に恥じて隠すようになっているから,≪私≫が生きている実感を出してはダメだぁと自分をいつも責める気持ち
≪私≫が生きている実感を生きる指針にするという目の前にある自分の壁から,腑に落ちる自分らしい不動の生き方に気付きますと,4歳5歳のその子どもは,次の舞台に直面します。次の舞台は次の分かれ道でもあります。自分が一個の人間として「生きている」ことを確信したので,次は,自分はどんなに心から優しい人になれるのかを見つける番です。そして,ここで,自分の生き方を,他ならない一番星に結びつけます。その子は,お父さんお母さんみたいに,とても強くて,とても美しくなりたいと願います。ただし,お父さんお母さんは,時には全く納得できないほど傷つけることもあるけれども。その子は,「お父さんお母さんと一心同体になります」し,神様の心から優しい御心がお父さんお母さんにとって,どんな意味があるのか,という物の見方と遊ぶのです。3つの力強い発達が,この4歳5歳の舞台では,子どもを自分の分かれ道に近づくのに,助けになりますし,役立ちます。(1)その子どもは,自由に,しかも,力強く「(聖書の神様の命が)ぐるっと一巡する」ことを身に付ける様になりますから,ずっと大きくて,その子にとっては,無限に光り輝く目標を立てることも身に付けます。(2)その子の「舌」で感じる体感は,自分が分かるところと,よく分からないたくさんのことを質問できるところとにピタッと手が届きます。そして,(3)おしゃべりしたり,動き回ったりできるから,自分がビックリせざるをえないたくさんのことが,「いろいろとイメージを抱いて,こうかな,ああかな,としているうちに」,自分が夢見てきたことや思い付いてきたこととピタッと一体にすることができます。それにもかかわらず,これら全てから,その子は,「決して打ち砕かれることなど出来ない不動の,自ら歓んで快く関わり出す関わり」を,互いに大切にし合いながらも,同時に,独立自尊でも居られる,気高くも,実感のある心の習慣のための,たった1つの岩盤にして,育つことになります。
こう申し上げますと,ここで問いたくなる御仁もおいでになるかもしれませんね。「私が生きている実感に従って,快く歓んで関わりを始める,決して壊されることのない心の習慣ができた,ということの判断基準は,いったい何でしょう?」と。ここでお話ししている全ての心の習慣に当てはまる,その判断基準と,同じです。1つの分かれ道は,様々な恐れ,すなわち,創造することに伴う不安と緊張が少なくとも伴いながら,自分自身がいっそう自由に繰り返しなれる,と見なされることです。というのも,その子は心も身体もやり取りができるほど「親らと共に育つ」と見なされるからです。その子は「いっそう自分らしく」なったように見えますし,いっそう愛らしく,いっそう自由にゆったりと構えて,自分の判断がいっそう賢くなっているように見えます(こういったことが,4歳5歳の舞台になります)。ほとんどの者は,以前のように,自分から関わりを始めるものです。その子はかなり過剰なエネルギーを歓んで手に入れていますから,失敗はすぐに忘れ,ほしいと思ったものは(多少のリスクがあっても)相変わらず,より善い目標がハッキリと見定めた努力によって,手に入れようとします。自ら関わりを始める道で,その子も親も,上手に次の別れ道に直面できます。
私どもは,2歳の終わりに近づいています。その時期に,歩くのは容易なこととなり,あるいは,力強いものになります。拙著によれば,1人の子どもは「歩くことができる」のは,ずっと前のことです。しかしながら,人品が発達する視点からは,1人の子どもが1人で人生を歩むためには,2人3人の助けを借りて,短期間の内に,大なり小なり,あの神様の命が一巡する,互いに大切にし合う,あの聖書の神様が統べ給う場を,満ち満ちたものにしなくてはなりません。2歳の子どもは,自分が主人公でいられる時空で,自分の化身になる1つの玩具を歩かせますし,走らせますが,それは,その子が「心の中に」気高い自分を感じている時ですし,自分がその玩具を歩かせていることは忘れて,その代わりに「自分の化身である玩具と共に」できることを発見できる時なんです。互いに大切にし合う場で自分を発見できて初めて,2歳の子の両脚は,自分が無意識に動かせるものになるわけで,外側にある,まだまだ当てにならない歩く部品になるんじゃあないんですね。互いに大切にし合う場で自分を発見して初めて,2歳の子は,自分が「今できそうな」ことを,自分が「今できると分かっている」ことに加えて,素晴らしい心眼で,発見するようになります。
振り返ってみることにしましょう。最初の通過点は,ホッとすることでしたね。あの聖書の神様を信頼する信頼は,息,消化,眠り,などの生きていく上で欠かせない働きが,与えられる食べ物や元気が,一貫していて,馴染みあるものになるように,(訳注:聖書の神様の命が)回っている経験に基づいているものですから,赤ちゃんが生きている実感が,まず自分の居場所をシッカリと体感し,その次に立ち上がることができるようになる,自由になる力に,人品の芳香を添えることになります。第2通過点は(2歳になってはじめて,通過できるものです),自分の居場所で安心していられる通過点であるだけではなくて,いわば,1つの素晴らしい業績です。この素晴らしい業績のおかげで,2歳3歳になる赤ちゃんは,選び取ったり,手放したり,あるいは,積み上げたり,上手にかわ(躱)したりすることを,よりハッキリと見極めるために,あるいは,よりハッキリと生きている実感に従って生きるために,次第に筋肉が使えるようになります。
第3通過点は,その4歳5歳の子どもは,人に頼らず元気に関わりを始めることができるようになる,ということによって,分かります。4歳5歳の子どもは,自由平等友愛を陽気に楽しんで生きている大人と同じように,自分は偉大だ,とみなすようになります。4歳5歳の子どもは,創造の大小の違い,特に男女の性差を比較し始めますし,あくなき好奇心を育てがちです。4歳5歳の子どもは,できそうな将来の様々な役割をシッカリと一纏めにして納得しようとしますし,とにもかくにも,どんな役割が真似するに値するのかを見て分かろうとします。
4歳5歳の子どもは,人に頼らず元気に関わりを始めることができるようになることが課題で,それが第3通過点です。
将来の役割をまとめたものが,一番星となります。4歳5歳の子どもが人と関わりを始めるのは,一番星に近づくためなのでしょう。