エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #単独者の恵み #生きる知恵

2019-11-03 12:39:06 | 聖書の言葉から


 
#聖書の言葉 #1人豊か #明るい
   マハトマ・まど・みちおさんの言葉から明るいっちゅうのは明日があるということです...
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」 をご参照ください。


  生きているのに 死んでいるあなたへ

  マハトマ・まど・みちおさんの言葉 から




  笑うこと

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#自分を大切にすること と #お母さんから大切にされた経験

2019-11-03 12:28:04 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの


 
#要注意 #戦争の意味 #平和の退屈
 #大嫌いな自分と仲良くできる #発達トラウマ障害DTDセラピーの基本形   発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com  但し......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  をご参照ください。  
 
 
 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。 
 
 p.112のブランクから。
 今朝は,第3パラグラフから。
 
 
 
 
 
安全基地
 
 人間がこの世に生まれたとき,私どもがオギャーと泣くのは,自分がいまここにいることを知らせるためです。誰かがすぐに,オギャーと泣いた私たちに関わってくれてお風呂に入れてくれて,お包みに入れてくれて、お腹を満たしてくれて,中でも1番なのは,お腹や胸のところに持ち上げて肌と肌で触れ合って抱っこしてもらえることです。私ども人間は,根源的に,関係の中で生きる被造物なんですね。つまり,私どもの暮らしは,人類皆兄弟の中に自分の居場所を見付けるものでしょ。私は,かのフランスの精神科医,ピエール・ジャネ大先生の言葉遣いが大好きでしてね。「全ての人生は芸術作品,手に入る全てをピッタリと合わせて一体にした芸術作品です」
 私どもは成長するにつれて,自分をだんだんと大切にするようになります,身体も心も。ですが,自分を大切にする最初の学びは,お母さんから大切にされた経験からです。
 
 
 
 自分を大切にすることは,お母さんから大切にされた経験から生まれる,というのは,意外と意識できない事実です。
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#的外れ = #相手をコントロール

2019-11-03 12:08:37 | エリクソンの発達臨床心理


 
#聖書の言葉 #1人豊か #明るい
   マハトマ・まど・みちおさんの言葉から明るいっちゅうのは明日があるということです...
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」

  をご参照ください。

 

 Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」

イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。

 p.340の 第2パラグラフを残して

 今朝は第Ⅱ章。


 

  別の論文で(エリクソン,1964),申し上げてきたことは,人間にとって最も根源的な人品である,「聖書の神様に望みを掛ける希望」は,魂が聖書の神様のいのちに繋がって,「とてもいい」と許されて,確かにされることです。魂が聖書の神様のいのちに繋がって,「とてもいい」と許されて,確かにされることって,赤ちゃんの時に,母親と仲間になって,互いに大切にし合うことから,バラバラにならずに,ピッタリと一心同体になっていることなんですし,同時に,全ての人間にとって,梵我一如の心の習慣(梵我一如の約束)をギフトとして,プレゼントしてくれるものなんですから。「聖書の神様に望みを掛ける希望」が地に足を着け,生活の中で育つのは,赤ちゃんの舞台ですし,敢えて申し上げれば,あらゆる毎日礼拝とあらゆる儀式のおかげで,仲の良い親友関係の中で,育つものです。あらゆる毎日礼拝とあらゆる儀式は,コントロールされ,生きている実感の息の根を絞められて,聖書の神様を信頼する大文字の希望を見失っている習慣に,2人で立ち向かうことですし,聖書の神様のスピリットを魂に打ち込まれていることに気付いて,顔と顔を合わせて,一生涯,互いに大切にし合う光を約束します。それは,(訳注:新約聖書の「コリント人への第一の手紙」第13章12節にあるように)「私どもは,体得底で体験的に理解してもらっている様に,体得底で体験的に理解できるようになります」。


 人間を上下2つに分けるウソ


 人間の毎日礼拝から心からの歓びをやり取りする,聖書の神様のまします場を分かち合うために,心の刻んでおかなくてはならないのは,聖書の神様のいのちが一巡しないと,相手をコントロールすることになる,ということなんです。

 

 

 聖書で言う罪 的外れは,相手をコントロールことだと分かります。

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#平和  と  #優しい両手 と  #主の道

2019-11-03 10:38:51 | エリクソンの発達臨床心理


 
#恐れるな #大人 #創造に自覚的に参加
 現世考 : #振り向いてくれる顔を欲しかった #座間殺人事件から #発達トラウマ障害DTDを考える #死んだ人の顔はソッポを向けない #再生のための人格的真理 イ......
 

 


「発達トラウマ障害 Enpedia」
  をご参照ください。
  
 
identity and the life cycle  『聖書の神様と毎日一心同体になること と 聖書の神様の心から優しいスピリットが,目の前の相手と私の関係の中で一巡すること』
 p.104のタイトルから。
 今朝は,タイトルの後の5行目から。
 
 
「1つも傷がないシャローム平和 対 希望を見失うこと と 持ち味が死んでること」
 
 一心同体に成る生き方の中で,森羅万象と全人類を大切にして,(訳注:新約聖書の中でパウロさんが語っているみたいに)生きていることの酸いにも甘いにも,自分をピッタリと合わせて生きてきた人だけが,7つの舞台の果実を次第に育てることができます。その果実に相応しい言葉に,シャローム平和,よりもいい言葉はありません。明確な定義がありませんから,シャローム平和のスピリットの目印を示しておきましょうね。 シャローム平和の目印は,自分が自分の主人公になることと,聖書の神様のいのちが一巡して2人を一心同体にする主の道のパートナーになるのを,(訳注:驚きと,圧倒的で静かな感激の中で),もろ手を挙げて受け容れることですし,自分にとって大切な人たちを,ありのままで大切ですし,しかも,聖書の神様のいのちが一巡する掛け替えのないパートナーとして,もろ手を挙げて受け容れることです。
 
 シャローム平和の目印は,優しい両手に,聖書の神様のいのちが一巡する種の道を共にする相手を受け止めることに決まっています。
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#驚きと感激の毎日 #毎日礼拝の不思議

2019-11-03 06:54:47 | エリクソンの発達臨床心理


 
#創造性の芽生え #創造性への内的促し #性差に対する関心 に #現れる
 #座間殺人事件の意味が分かるお互いに殺しあう心の習慣 #大人の本音を見抜く子どもの素晴らしい感性 #大人は自分の本音も判らない   発達トラウマ障害(DTD)......
 

 

 「発達トラウマ障害 Enpedia」

  をご参照ください。

 

 Toys and Reasons. 『おもちゃ と 賢慮』から,p.42の第2パラグラフから。

 今朝は,p.43の8行目から。

 

 

 プラトンが教えている「跳び上がるほどの心からの歓び」については,後ほど申し上げることがあります。聖書の神様がまします今,もう一度,無心になって子どもを大切にすることに心からの歓びが母親に満ち溢れるシャローム平和が,子どもも母親も共に創造して発達させくれること(私ども夫婦が始めた遊び療法)と,そのシャローム平和(遊び療法)が魂に刻み付ける一番の人品に立ち返りましょうね。遊びと呼ばれる,遊びに見える,遊びのように感じる,相手にピッタリと息を合わせる生き方の光から,私ども夫婦が照らし出したことが示しているのは,人間らしい気高い力です。 その人間らしい気高い力とは,人間が,子どもの頃に想像力を働かせて夢中になって育つ世界の中で,聖書の神様のいのちを一巡させて,発達させることに根差している力ですが,聖書の神様を信頼する仲間になる信頼が封印されているものを使って,結界の中で心に浮かんだ聖書の神様の舞台の啓示を,繰り返し受け容れる力です。私どもが確かにされるときに、聖書の神様の舞台が私どもの魂に打ち込まれる(訳注:正確には,「打ち込まれていることに気付く」とすべきです。なぜなら,気付くと気付かないとにかかわらず,尊厳はすでに打ち込まれているからです。)のは,相手の魂に心響かせることができる大人が,聖書の神様に祈り求めているからです。ですからねぇ、必ずしも,自ら望んでした星周りではありません。聖書の神様がまします結界の中では,私ども人間は,聖書の神様のいのちが一巡する(ように,後ほどなる)器になりますから,いまここが,いつどこででも,毎日礼拝が生まれる場になります。ところが,人々が,なるほど本当だなぁ,と信頼するようになるのは,聖書の神様のいのちが一巡する場で,2人が共に創造発達することって,誠実に相手を自分のように大切にすることに夢中になって,晴れ晴れと歓ぶ毎日礼拝の元があって初めて,形の上でも中身の上でも,その創造発達が,驚きと感激,という最高の恵みになる,ということです。

 

  神様のいのちが一巡して,相手と自分の息がピッタリと合うと,不思議な一体感が生まれてきます。その一体感は,相手にとっても,自分にとっても,何度やっても,驚きと感激です。

 

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