#聖書の言葉 #単独者の恵み #晴れ晴れ人生
#聖書の言葉 #1人豊か #おそれるな 聖書の言葉: πάθος パトス 日本もアメリカに見習った方が良い 心の泉 何か大事なものを象徴する美を実感する......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
生きているのに
死んでいるあなたへ
今朝も,ヘンリー・ナウエンさんの言葉から。
山川草木悉祈
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死んでいるあなたへ
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山川草木悉祈
#コネクトーム #心の病はコネクトームが繋がらないから #残り2パラグラフ
#体験主義 #ヴァンデコーク教授の 発達トラウマ障害(DTD)の子ども達,今のニッポンの教育や医療では,太刀打ちできない! 人生に対するトータルなヴィジョン......
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ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。
p.117の,ブランクから。
今朝は,p.118の,第5パラグラフから。
自分が体験した両親と生きる
子ども等は誰でも,お母さんにピッタリとくっついて一心同体に成る生物的な本能があります。なのに,子どもには選択肢が1つもないんです。その子等の両親や育ての親が,心から優しくしてくれて,大事にしてくれるのか? それとも,よそよそしくて,鈍感で,相手をしてくれず,粗末にするのか? によって,その子等は,少なくともいくつかのニーズを手に入れようとして,コッソリと打つやり方を育てることになります。
私どもがこのコッソリ打つやり方になりかねない振舞い形を評価し,身に着けて来たのは,2人のアメリカ人科学者,メアリー・アインズワースと、メアリー・メインの業績のおかげです。また,2人の仲間は,何千時間もかけて,お母さんと赤ちゃんの観察を,何年にもわたって,行ったんです。こういった地道な研究に基づいて,エインズワースが作り出したのが,「見慣れたお母さんが居ない場面(ストレンジ・シチュエーション)」と呼ばれる研究法です。それは、赤ちゃんが一時お母さんから離れたときに,赤ちゃんがどのように反応するのかを観る方法です。かつてボールビーが観察したように,安心してお母さんにくっついて一心同体に成った赤ちゃんは,あ母さんが見えないと強い不安に陥りますが,お母さんが戻れば,歓びますし,束の間安心を取り戻すと,落ち着いて遊びに戻ります。
しかし,安心してくっ付けないせいで,一心同体に成り損ねた赤ちゃんは,その赤ちゃんが描く絵はもっと複雑です。お母さんが振り返ってくれず,見て見ぬふりをする子どもは,不安に処するのに2つの方法を用います。研究者たちが気が付いたのは,いつもイライラしていて,お母さんに対して不満タラタラの子もいれば,おとなしくて,引っ込み思案の子もいる,ということです。どちらの集団も,お母さんと触れ合っても,気持ちを落ち着けることができませんから,安心してお母さんにくっ付いて一心同体に成れた子ども等みたいに,満足して遊びに戻れません。
1つのパターン,「人を避けることがくっ付く代わりをする」と呼ばれるパターンでは,赤ちゃんは,お母さんを1つも気にしていないように見えます。お母さんが居なくなっても泣きませんし,お母さんが戻ってきても,知らん顔です。しかし,だからと言って,子ども等が,影響避けないんではありません。実際に,子ども等は心拍が速くなりますから,いつも過覚醒なんです。私と仲間たちは,このパターンを,「やり取りはあるのに気持ちが1つも籠らない」と呼びました。「人を避けることがくっ付く代わりをする」と呼ばれるパターンの赤ちゃんの,お母さんは,たいてい,自分の子どもに触れるのがお嫌いです。この手のお母さんは,赤ちゃんにスリスリしたり,抱っこしたりするのも、気が進みませんし,赤ちゃんと楽しいやり取りを繰り返し作り出す表情や掛け声ができません。
もう1つのパターンでは,「心配」しながらくっ付くのと「ぶつかる気持ち」がありながらくっ付くパターンと呼びますが,赤ちゃんは,泣いたり,大声を出したり,しがみついたり、泣き叫んだりして,自分に注意をいつも引こうとします。「気持ちがあるのに,やり取りがない」んです。この手の子ども等は,何か目立つことをしない限り,誰も自分を見てくれない,と感じているように見えます。こういう子がひどく騒ぐのは,お母さんがどこにいるか分からない時ですが,お母さんが戻っても,あまり元気になれません。お母さんと一緒でもあまり楽しそうには見えないのに,黙っていても,あるいは,怒りながら,お母さんを気にしているんです。他の子だったら,遊ぶだろう場面でも,黙ったままで,あるいは、怒りながら,お母さんを気にしているんですから。
赤ちゃんがお母さんにくっ付いて一心堂内になるかどうかを研究する研究者たちが考えたことは,くっ付いて一心同体に成ろうとして「出来上がった」戦略は,3つ(安心してくっ付く,人を避けてくっ付く,不安なままでくっ付く)が働くのは,特定の親がくれる世話から一番を引き出すためでした。1つしかない世話のされ方(その世話の仕方が,気持ちが籠っていなくても,自分の気持ちを汲み取っていなくても)に出会う赤ちゃん等は,その世話をされる唯一の関係に適応していきます。これは一つも問題がない,ということではありません。このくっつくパターンは,大人になっても変わらないのが普通です。心配しながらくっ付いていたよちよち歩きさんは,心配しながら人と関わる大人になっちゃいますし,人を避けながらっ付くよちよち歩きさんは,自分の気持ちも人の気持ちも分からない大人になります(「お尻をピシャリとやられることは悪くない。お尻をピシャリとやられたからたからこそ,いまの成功を勝ち得たんだから」という場合みたいに)。学校では 避けてくっ付く子はいじめっ子になりやすいですし,心配しつつくっ付く子は,いじめられっ子になりやすいんです。しかし,発達は直線的に進むものではありませんから,人生の様々な体験のおかげで,結果が違ってくる場合も多いものです。
しかし,実はもう1つのグルーブがありまして,そのグループこそ,適応が一層怪しいのであるとともに,私どもが治療しているたくさんの子どもたちなるグルーブですし,同時に,精神科のクリニックに来るたくさんの大人たちになるグルーブです。
下山晴彦さんのテキストでは,Dタイプ,無秩序型(無方向型)と呼ばれるグルーブです(『教育心理学Ⅱ』)。このグルーブは基本的に発達トラウマ障害と考えて間違いありません。でも,発達トラウマ障害はこのグルーブに限りません。
#聖書の言葉 #単独者の恵み #晴れ晴れ人生
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Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」
イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。
p.344の,ブランクの後。
今朝は,p.345最初から。
4 子どもの頃 :あの台本通りに,とあの形
私がこれまで取り出した毎日礼拝の元は2つです。その2つは,本当の自分を創造発達させる中でキッパリと根付かせました。最初の病因を突き止める「病因論」の視点で見る時,繰り返し申し上げておきたいことは,赤ちゃんの時期と大人の人生のハビットの間に単純な因果関係があるということを私が申し上げているわけではない,ということです。それは,大人の様々な毎日礼拝には,特に,子どもが自分の足で自律したいという,目には見えないニーズに応えるという意味がありますから。ご先祖様や聖書の神様は次第に大人になることを求めている,というイメージ(これから見ますけれども)は,子どもに顔を近づけるお母さんの真似をしたり、「正義」の理想を追ったりすることだけじゃない,子どもの頃の悪い良心が外に現れることだけじゃない、ということです。むしろ,人が聖書の神様の予定(説)に従って創造発達するのは,人生のハビットを形作る主たる元(型)のそれぞれが,長い子どもの頃のそれぞれの舞台にありつつ,それぞれの子どもの頃の舞台に根差していることは確かにそうなんですが,その人生のハビットを形作る元(型)が展開すると,繰り返しシャローム英和をより気高く前進させるんです。ヌミノースの元(型)は,分別の毎日礼拝でも繰り返し現れるますが,それは,全ての「気高い相手」や「正義の女神」の気高さにくっ付いている燃え上がる光みたいです。あるいは,ヌミノースの元(型)は,「正義の女神」のイメージを象徴したりイメージしたりする礼拝を具現する人物に付き物の燃え上がる光のようです。ところが,ヌミノースの元型や分別の元型そのものが,たとえ,特定の人生の舞台や特定の人生のハビットを差配するとしても,毎日礼拝を「作り出す」訳じゃないんです。他の元型も2つの元型と一緒に働かなくちゃならんからです。もちろん,この後で「あの台本通りに努める」元型,「完全にやり遂げる」元型、「理想に賭ける」元型も論じます(p.348の図1参照)。
まず,「あの台本通りに努める」元型です。この元形は,私は,「陽気で楽しい歓びを歓ぶ力」が完熟する中に根差している,と信じています。「陽気で楽しい歓びを歓ぶ力」さえあれば,子どもは手に入るものを使って,「台本通りに聖書の神様のいのちが一巡する役割を果たして,2人が一心同体に成る物語を創造し,「最高の結末」ができます。
第2の「分別」の舞台は,親の声が子どもの心に入る所に特色がありますが,他方,この(訳注:第2の)分別の舞台が(訳注:1歳か2歳の)子どもに手渡すのは,1つの小さな実感です。その小さな実感の中で,その小さな子どもは,親がやる毎日礼拝から逃げ出して,過去に体験したことをもう一度生きて,正して,創造し直します,…
小さな実感が発達トラウマ体験を再体験して,創造し直すために必要不可欠で,発達トラウマ障害治療の要になります。
#人類皆兄弟 #だんだん大人になる予定
#真面目なことを陽気で楽しくやる #井上やすしさん #エリクソンの祈り 現世考: 山城博治さん・上原公子(ひろこ)さんと,共謀罪 上原公子(ひろこ)さん 自分......
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Toys and Reasons. 『おもちゃ と 賢慮』から。
p.49の第2パラグラフから。
今朝は,p.51の,8行目から。
そして,いつものようにピアジェさんの登場です。(訳注:ピアジェさんの代表作)『子どもの中に実感を育てること』の冒頭で,「ずっと残るものからできている世界は,…死と再生を繰り返すことなく,因果の法則に従う時空です。ですからね,世界は,確かに外にある,唯一の世界になりますし,その外なる世界の中で,あらゆる言葉がある中で,人は自分をのことを固有名詞で呼びます」とピアジェさんは言います。是非心に刻んでおいてほしいことは,理性の塊であるピアジェさんの議論の真ん中に,「死」と「再生」という実存的な言葉が不意に見つかることです。私ども夫婦は,これを最大限生かしましょうね。と申しますのも,赤ちゃんのことで描き出していることは,人間が自分のスピリットをイキイキと生かしたいと願うのは人間の最深欲求からだ,と私は信じているからなんです。あるいは,もっと創造的に申し上げれば、私どもが見て「手で触れる」ようになった事実に意味をもたらす実感にとって,キリストの「死」と「再生」は,根っこにあることです。心にどんなイメージを抱くかという心の習慣にとっても、キリストの「死」と「再生」が根っこにあります。このキリストの「死」と「再生」が根っことなった心の習慣のおかげで,人間は,全ての創造発達の舞台,すなわち,生涯にわたって,聖書の神様の心から優しい思し召し通りに創造発達する中で,シャローム心からの平和を,繰り返し確実に実感することができます。つまり,爪弾きにされ,相手にもされずにいるよりも,生かされている実感が胸いっぱいに満たされる中で生きたいのです。自分から人に関われず、助けてももらえないのでなく,自分から人を大切にする関わりができて,それを遂げることができます。自分だけ特別に見守られているのであって,感覚過敏になったり,無感覚になったりするんじゃない。中でも,試練を乗り越えて,生かされている実感が漲って生きるんであって,見て見ぬふりをされて,見捨てられるんじゃぁありません。これら全ての兆しは,あの生かされている実感が漲る意識の,朧げな始まりです。あの生かされている実感が漲る意識は,どの言葉でも,《私》と呼ぶようになりますし,あらゆる宗教では,神様から「とても善いよ」と言われる,いのちが一巡するど真ん中(訳注:救い主,キリスト)を求めることにもなります。ですからね,顔と顔を合わせることが,ルネ・スピッツやジョアン・エリクソンが指摘している様に,宗教的なイメージ(聖母マリアが首を傾げて、幼子のキリストと一心同体に成った光みたいに)を思い出させるものであるのならば,顔と顔を合わせることそのものが,聖書の神様を信頼する自分が創造される基になる,と言えますよね。聖書の神様を信頼するとは,唯一の聖書の神様がギフトして下さる「生かされている実感が漲り,生きているって素晴らしいと実感する私」の恵みで,こころの中心軸にある本当の自分が「とても善い」と認められることを信頼することです。唯一の聖書の神様がギフトして下さる「生かされている実感が漲り,生きているって素晴らしいと実感する私」の恵みは,人がカリスマ的な指導者を求める源にもなりますし,運命を左右することにもなります。
2人の魂が一心同体に成る点から申し上げて,私が自明のこととと考えていることを申し上げれば,希望の根っこは,赤ちゃんの時期に,あ母さんを信頼する根源的信頼と,お母さんが当てにできない根源的不信の間で,2人が根源的な苦労をすることからしか生まれませんよ、ということなんです。それから,この苦労は,その後の苦労全てと同様に,生涯を通して繰り返し,自分を心から自由にすることになる,ということです。それじゃあ,ピアジェが言う「死」って,一体何なんでしょうね? 馴染めないことは根っから信頼できないこと,ソッポを向くお母さんの顔に身も凍る思いをすること,子どもを避けるお母さんやウソつきのお母さんを怖がったり,腹が煮えくり返るほど激しく怒ったりすること,それに,繰り返し生きている実感があって安心している,ということがなくて不安で不安でたまらない,って,一体何なんでしょうか? スピッツは著作の中で早期に主張したのは,「8か月不安」でしたね,「8か月不安」とは,赤ちゃんが,見知らぬ人に「不安で眉をしかめたり」,「大泣きしたり」して応じることです。それに対して,私どもは「おバカさんね」と言って笑って,繰り返し赤ちゃんに元気・陽気を上げますでしょ。でもね,このように8か月の赤ちゃんが馴染めてない相手を愚かにも怖がることって,馴染めない相手に対する唯一の初体験ですし,それは不安と激しい怒りが混ざったもので,しかも,一生続いてしまいますし,様々な人を激しく怒ることに広がっていきますでしょ。それに,この激しい怒りが混ざった不安は,大人になったとき,大人になるから,馴染みになったことに見捨てられて,押しつぶされる力の犠牲になるかもしれないという不安になります。邪悪な眼を怖がり,心からの優しさがある聖書の神様の見守られることもなく,宇宙の中で一人ぼっちになるのを怖がる不安です。
私ども臨床家が,あの「死」が始まるのは,ここだ,と体得的で分かって,「なるほど本当だねぇ」と思うのは,ここで申し上げたように,赤ちゃんが8か月不安になったときにお母さんから元気と陽気をあまりもらえないことから,本当の自分を自由に生かす(泳がせる)試練(訳注:本物の洗礼はこれ)に耐えるだけの元気と陽気が欠けた子どもに出会う時です。私ども臨床家が「死」と出会うのは,毎日毎日,毎時間毎時間,繰り返し元気と陽気を求めてくる心の病(訳注:発達トラウマ障害)に脅かされた子どもの患者に出会うんです。勇気をもって互いに大切にし合って,死んでしまわないように,大事な人を殺しちゃわないように,大事な人に殺されないように。このようにして身に染みて分かるのは,「生きている実感」は脆いということです。この「生きている実感」は,中心軸になる「自分」(ドイツ人は「お母さんの顔(眼差し)」と呼びます)から話す時,たくさん話す言葉の音色になります。この中心軸になる「自分」は,確かめた事実の合計以上に広い見方である生きている意味をもたらします。
「生きている実感」は,「生きている意味」の源。
「生きている実感」が意味を持つのは,中心軸になる「自分」が創造される時,「お母さんの顔」、「聖書の神様の顔」=キリストと顔を合わせた時です。
#聖書の神様の笑顔 #諍いを1つにする場 #自由にされたルター
#大人に確実になる心から優しい梯子 #日常生活を礼拝にすること 現世考: 背番号42の勇気 癒しのやり取り 役立たずの無知な「専門家」の授業 加......
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Identity :Youth and Crisis 『聖書の神様と一心同体に成ること : 若さと危機』
今朝は,p.174の,4行目から。
備忘録的に,p.168の第2パラグラフも残します。
忘れてはならないのは,気持ちがピッタリと分かり合って腑に落ちることの反対は、人に馴染めず心がバラバラだ,ということです。つまり,1番親しい母親は,いまここにあると,母親には不都合な強さや不都合な人たちを,裏切り,見て見ぬふりをして,殺してしまいやすい、ということはね,忘れてはなりません。一纏まりの人や思いに馴染むことは,別のまとまりの人や思いを上手に裏切ることなしには,あり得ませんでしょ。このように,忖度と裏切り,それは,一番親しいはずの母親と一心同体に成ることできなかったために,最深欲求を満たすことができない人のいつもの心の態度になります。最深欲求が満足していない人って,自分の「良心」に確信を持てませんから,不正な誘いを断る賢さがありません。
…
ダメだと言う人と一心同体に成るという選択
お母さんと一心同体に成って,気持ちがピッタリと分かり合って腑に落ちる心の習慣がありませんと,家族や近隣の人々の中で,素晴らしいとか,望ましいとか思われている役割に対して,小ばかにし,鼻持ちならない敵意を抱くことになる場合が多いんです。人から頼られる役割は,おしなべて,腑に落ちる心の習慣がない若者がひどく毛嫌いする中心点になりがちです。このように,自分に振り向いてくれる人が欲しくて,反抗をしすぎることは,アングロサクソンの一番の古株からラテン系やユダヤ系の新米まで,あらゆる人間に見られます。自分に振り向いてくれる人が欲しくて,反抗をしすぎることは,何でもかんでもアメリカ的なことは大嫌いという態度にもなりますし,馴染めないこと全てに対して,理屈に合わないほど,買いかぶったり,軽蔑しすぎたり,ということにもなりがちです。聖書の神様のいのちが一巡して,晴れ晴れと本当の自分に生きがいのあるいのちが2人に実るのは,(訳注:一粒の麦が落ちて死んで)1人が自分のいのちを空っぽにする時だけなんですよ。反対に,生きている実感が萎んで,1人でも傲慢になると,2人が本当の自分を生きるのが抑え込まれることになります。ケース報告で印象的なバラバラになった自分が示しているのは,悪い良心が勝って,若者のよちよち歩きの一心同体の実感がバカにされている,ということなんです。「『お前はダメだ』と言う心の声が,この頃,よく聞こえるんですよ。『お前はダメだ』と言う心の声は,やることなすこと『ダメだ』と言ってくるんです,というわけですね。その若者の話では『煙草を吸っても,女の子に“好きだよ”と言っても,身振りをしても,音楽を聴いてても,本を読もうとしても,この3番目の声は私にいつでも,『お前がうまくやろうとしたって,ダメ(ウソ)ですよ』と言うんです」,この『お前はダメだ』と言う心の声は,とっても冷酷です。とある日,内から大学へ行く途中,その若者が乗った電車が,ニュージャージーの沼地と貧民街を横切りました。その若者が強く感じたのは,大学や家の人よりも,貧民街の人と,気が合う,ということでした。いのちは貧民街みたいなところにだけある感じで,対照的に,大学は庇護された女々しい場所に思えたのでした。
この例の中で大事なのは,圧倒的な悪い良心,「お前はダメだ」という心の声(しかし,その声は,この若者が別の道を選ぶほどにはまとまっていません)のことをよく考えてみることばかりではなくて,一心同体に成れずに病んだ自分を,バラバラな社会のせいにすることをよくよく考えてみるなんです。似たようなケースはフランス系アメリカ人のケースですが,その方は,かなり栄えた炭鉱町の出身で,男の子と一緒ですと,突然不安に襲われてパニックになったんです。割り当ての悪い良心がいつもくっ付いてきて,聖書の神様と一心同体に成り損ねていると,まるで聖書の神様との関わりとは的外れな強迫的な思いに飛びついてしまうんです。その的外れな強迫的な思いとは,男はみんな,やっぱり「フレンチはこうでなくちゃ」と思われるセックスをしてくれると期待しているもんだ,ということでした。
このように,国や民族の祖先に馴染めないことが,「本当の自分と一心同体に成る」ことが完全にダメになるのは珍しいことです。ただし,特定の名前やニックネームで呼ばれることを,新しい旗印に居場所を探している若者の中には,いつも怒っている人は珍しいことではありません。しかし,自分のルーツについて仲良く話し合って,見直すことはよくあることです。
人の話を善く聴いて,仲良く話し合うことは,いつでも大切です。
見直しには,仲良く(=対等で自由に)話し合うこと,対話が必ず伴います。