#聖書の言葉 #単独者の恵み #幸せ
#見ること と #人生の物語 インターメッツォ: エリクソンの叡智: 日常生活の≪超越性≫ 愛着障害の子ども等が、ひどい扱いを受ける訳(のひとつ) 子ど......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
生きているのに
死んでいるあなたへ
今朝も,ヘンリー・ナウエンさんの言葉から。
新しい道
は
聖書の神様からの
ギフト
#聖書の言葉 #単独者の恵み #幸せ
#見ること と #人生の物語 インターメッツォ: エリクソンの叡智: 日常生活の≪超越性≫ 愛着障害の子ども等が、ひどい扱いを受ける訳(のひとつ) 子ど......
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死んでいるあなたへ
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ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。
p.115の第2パラグラフから。
今朝は,p.117の,ブランク後の,第2パラグラフから。
心響かせることに身を入れる
…
安心して赤ちゃんがお母さんにくっ付いていられることは,同時に,できたという気持ちを育てますが,「安心して自分のことは自分で出来て清々しい心の場」を創造します。この「安心して自分のことは自分で出来て清々しい心の場」は,生涯を通して,挫けずに生きる秘訣です。安心してくっ付いていられる子ども等は,自分が心地よいと感じるようになります。というのも,安心してお母さんにくっ付いていられる赤ちゃんは,自分(や人)が気分が悪くなるものを見付けて,善くする心の習慣を身に着けているからです。善くする心の習慣って,自分の方から関われば,自分の気持ちや人の反応が変えられると分かっています。安心できるアタッチメントがうまくできた子ども等は,自分で解決できる状況と助けが必要な状況の分別がつくようになります。安心してくっ付いていられる子ども等は,困難に直面しても,自分から困難に向き合っていくことができるようになります。反対に,粗末に育てられた子ども等や,相手にされずに育った子ども等が身に着けることと言ったら,怖がっても,お願いしても,泣いても,親が相手をしてくれない,ということです。何をしたって,何を言ったって,親は打つことを止めてくれませんし,眼も助けもくれません。粗末に育てられたり,親から相手にされずに育った子ども等は,後年試練に出会うと,諦め人生を生きること決まってしまいます。
生きている実感を感じるようになる
ボールビーの同時代の人,小児科で精神分析家のドナルド・ウィニコットこそ,心響かせる関わりを研究する今の研究の父です。ウィニコットの精緻な母子観察は,お母さんが自分の赤ちゃんを抱っこするやり方を観察することから始まりました。ウィニコットが提示したのは,赤ちゃんの身体とお母さんの身体に触れ合うことが,赤ちゃんが生かされている実感を実感する元ですよ,それに伴い,本当の自分と生涯一心同体に成るということの元ですよ,ということです。お母さんが我が子を抱く抱き方が,「その子の身体がその子の魂が生きた場と感じる元」ですよ、ということです。私どもの身体が腑に落ち実感していることが,「生きている実感」の大元です。
ウィニコットが考えたのは,大部分のお母さんは赤ちゃんに上手に心響かれていた,ということでした。「いいお母さん」とウィニコットが呼ぶ母親になるのは,特別な才能などいりません。しかしながら,ことが本当に悪くなるのは,お母さんが赤ちゃんの実感に心響かせることができない場合です。もし,お母さんが赤ちゃんの体感やニーズにピッタリと息を合わせることができない場合,赤ちゃんはお母さんが「この子はこうなってほしい」という思いを忖度し合わせるようになってしまいます。赤ちゃんが実感している体感を軽く見たり,母親自身がしてほしいことに赤ちゃんを合わせようとしたりすると,赤ちゃんは,自分の生き方は「なんかおかしい」と感じるようになってしまいます。お母さんが息を合わせてくれない子ども等は,傷つきやすく,自分の身体から直接貰える実感,すなわち,心からの歓び,生きる目的,生きる指針の3つの大元を実感できません。
ボールビーやウィニコット等のアイデアが紹介されて数年後,世界中でアタッチメント理論のおかげで,大部分の子ども等は,安心してお母さんにくっ付いていられるアタッチメントがあると分かりました。安心してお母さんにくっ付いていられるアタッチメントがある子ども等が大人になりますと,頼りになり心響く関わりをしてもらえたことから、恐れや心配はご無用になります。押しつぶされるような出来事,すなわち,トラウマに晒されることがなければ,生涯を通して安心できる状態がいつもの生き方になります。トラウマがありますと,自分で自分の気持ちを治めることができなくなります。安心して赤ちゃんがお母さんにくっつくことは,その子らの対人関係の雛形になります。安心して赤ちゃんの頃にお母さんにくっ付いた子ども等は、人の気持ちに気付きますし,現実とお遊びの区別が幼い時分から分かります。安心して赤ちゃんの頃にお母さんにくっ付いた子ども等は、ウソと危ない人に鼻が利きます。安心してお母さんにくっ付けた子ども等は,いつも陽気な仲間になりますし,仲間と認め合う経験をたくさんします。他の人達に心響かせることができるようになると,声や顔色の微妙な変化にすぐに気付いて,その人に心響くように合わせることができます。安心して赤ちゃんの頃にお母さんにくっ付いた子ども等は、世の中に対する理解を人と分かち合う中で生きるようになりますし,その社会の重要なメンバーになります。
ところが,このような好循環も,子どもを粗末に育てたり,子どもの気持ちに気付かぬふりをしていると,簡単に悪循環します。粗末に育てられた子ども等は,声色と表情の変化に敏感なのに,声色や表情を,心響かせたままでいることのサインでなく,脅しと受け取ります。ウィスコンシン大学のセス・ポラックによれば,普通の子と粗末に育てられた子に,一連の顔を見せて,その反応を比較しました。怒りから悲しみまでの顔写真を見せますと,粗末に育てられた子は,怒りの微かな特徴に過剰に反応しました。
これには1つ理由があります。すなわち,粗末に育てられた子等は,とても被害者意識が高く,怖がりだ,ということです。学校の廊下の,顔の海の中を,襲ってくる人を見付けながら,通ることをイメージしてみてください。他の子の攻撃性に過剰に反応する子等は,他の子等のニーズは分かりませんし,落ち込みやすく,自分の気持ちを治めることもできませんから,人を避けがちですし,お泊りやお友達との遊ぶ約束をしたがりません。結局,粗末に育てられた子ども等は,強がりや偉ぶることで恐れを隠すようになるもんです。あるいは,粗末に育てられた子ども等は,1人でテレビを見たりも,1人でコンピューター・ゲームをしたり,する時間がだんだん増えますから,人と関わる様々な術や自分の気持ちを治めることが,ますます遅れます。
赤ちゃんがお母さんにピッタリとくっついて一心同体に成る体験を求める人のニーズは,決して目減りしません。人は長いこと他者とバラバラでいることに耐えられないものです。作品作り,友達,家族を通して絆を得られない人は,他の繋がり,すなわち,病気,法的争い,内輪もめという形で,繋がりを探すのが普通です。関係が切れていたり,冷たい関係だったりして,荒れ果てた気持ちになるよりかは,何でもましだからです。
2・3年前のクリスマスの晩に,サフェク・カウンティ―の刑務所で,14歳の少年を検査してほしい,と電話で呼び出されました。その少年は,休暇で留守のご近所の家に押し入った廉で逮捕されたんでした。防犯アラームが鳴り響いた時,警察はリビングにいた子を見付けました。
ジャックにした最初の質問は,クリスマスの晩に刑務所に訪ねてきてほしい人はいるのかなぁ?というものでした。ジャックは「誰もいないもん」と応えました。「僕に気を掛けてくれた人なんて、今まで1人もいなかったよ」。分かったことは,ジャックは,押し込み強盗で何度も捕まっていた,ということです。ジャックもおまわりさんのことを知っていましたし,おまわりさんもジャックのことは百も承知でした。ジャックの話では,おまわりさんたちはジャックが居間の真ん中にいるのを見付けると,「なんてこった,またジャックかよ,この死に損ない目が」と言ったと言います。誰かがしゃっくだと気付きましたし,誰かがジャックの名前を知っていましたから。そのあとで,ジャックは,嬉しそうな声で,白状しましたよ「だからね,自分に気付いてくれるだけで,ありがたいんどす」と。子どもは見守られている,確かに繋がりがあると実感するためなら,どんなことでもやるんですから。
自分が体験した両親と生きる
子ども等は誰でも,お母さんにピッタリとくっついて一心同体に成る生物的な本能があります。なのに,子どもには選択肢が1つもないんです。その子等の両親や育ての親が,心から優しくしてくれて,大事にしてくれるのか? それとも,よそよそしくて,鈍感で,相手をしてくれず,粗末にするのか? によって,その子等は,少なくともいくつかのニーズを手に入れようとして,コッソリと打つやり方を育てることになります。
私どもがこのコッソリ打つやり方になりかねない振舞い形を評価し,身に着けて来たのは,2人のアメリカ人科学者,メアリー・アインズワースと、メアリー・メインの業績のおかげです。
アタッチメント・スタイルと呼ばれる振舞い形は,後の研究になりますが、ダニエル・スターンによれば,生後9か月から15か月の時のお母さんとの日々の関係がものをいうことになります。
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Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」
イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。
p.341のⅢから。
今朝は,p.344の,第2パラグラフから。
Ⅲ 子どもの頃の初めと賢いこと
本当の自分を創造することを理解することが困難なのは,初めに行動指針を並べ立てるところから始めなくてはならない事実があるからです。本当の自分を創造することが発達して,その人ならでは,が育つ全体像の一番善い説明は,隠されている本当の自分が発達し,その人ならではが育つと,ひとりびとりが,キリストを介して聖書の神様と一心同体に成り,その結果,お互いにも一心同体に成ることです。それまで毎日礼拝が無言で「とてもいいぞ」と認めてくれていたことが,本当の自分が育つと,山のような人から,いまここで繰り返し,ハッキリと「とてもいいぞ」と認めて貰えるようになるはずです。子どもと,身体面でも,心理面でも,対人面でも関わる大人の数が増えますからね。つまり,毎日礼拝で,新しく出会った人たちと互いに大切にし合って,相手も自分も不動になり,自由になるんです。互いに大切にし合って,相手も自分も不動になり,自由になるのは,いつでも,敵が新しい友になる驚きの中にあります。それから,互いに大切にし合って,相手も自分も不動になり,自由になるのは,いつでも,新しい形が生まれます。
人間の毎日礼拝の第2の形は,一番相応しい言葉は,「judicial,分別の言葉」です。それは,ラテン語の「jus 立法」と「 dicere 話し言葉にする」という言葉の組み合わせだからです。とにかく,judicalという言葉は,正しいことと悪いことを「区別する」方法を含む言葉ですから,自分を創造する時には,確実になります。結局,善悪を峻別する「律法の話し言葉」は,人間の毎日礼拝の大切な見方になります。と申しますのも,毎日礼拝も,善しとされ仲間となる者と,それ以外のよそ者を区別しない毎日礼拝は,1つもないからです。選ばれる者と排除される者があるのは,最後の審判まで続きます。
この第2の形が自分を生み出す源は,第2の聖書の神様のいのちの舞台です。それは,子どもの頃の初めで,魂が生きている実感に従うのを習慣にすることが育つことと,発達が急にすすむこととが,特色です。「ある場所から別の場所に動けること」が,生きている実感を心の習慣にするのに役立つように,移動が許される限界にも出くわすことになります。「分別」が鋭くなるにつれて,「分別」は,「正しく見える」ことと「正しくは見えない」ことを他者の眼で見る忖度を受け容れることにもなります。しかも,「言葉が育つこと」(言葉は,「人間を上下2つに分けるウソ」による繋がりの一番強力な絆であることは明らかです)が,言葉になる世界の中で概念的に纏まるものを強調しますから,言葉にならないことは,名前もなく,奇妙で「悪い」ママになります。こういったこと全てに強烈な意味を与えるものは,フロイトさんが「お尻の穴」と呼んだものです。「お尻の穴」って,腑に落ちない新しい心の習慣にもなります。生きている実感を真っ直ぐに生きると,面目をなくして,恥ずかしいことになるんだと,子どもは気が付きます。真っ赤な顔をして正体がバレますし、一人ぼっちの孤独をひどく感じるのに,自分が悪いのか,自分を裁く親が悪いのか,が分かりません。大人たちは,いのちを削り合う関係の中で,子どもを出汁に使わなきゃ損だと感じますし,子どもは恥をかき,悪いのは自分なのか親なのかに迷う心の習慣をますます酷なものにします。しかし,本物の大人が,人間様を超える聖書の神様の正義を代弁するのは,善悪を分別する毎日礼拝じゃないんですからね。つまり,悪い行いは裁いても,悪いことをした当人を裁く必要などないんじゃないの?
決して忘れまいと思う経験が1つありまして,それは,全ての人類学者(プロでもアマでも)と分かり合えると確信します。つまり,それは,「現場で」「天から間違いなく善しとされる,善い生き方を直感することによって,自分の生業をとっても善いものですよ」と語った古老と初めて出会った,あの驚きです。善い実例をお示ししましょう。それは、北カリフォルニアに住むユーロック・インディアンの人たちから聞いた話です。そのユーロック・インディアンの人たちは,鮭と,増えて移動する(長い間,ハッキリとは分からなかった)鮭の謎の生き方に頼って暮らしてきました。
「昔はね,ユーロック人の食事は,自分が繰り返しユーロックの神様と一心同体に成る本物の礼拝でした。厳格な置き方があり,子どもは決まった食べ方を教えられました。たとえば,食べ物を少しスプーンに乗せること,そのスプーンをゆっくりと口に運ぶこと,食べ物を噛んでいる間はスプーンを下げておくこと,そして特に,その間,自分は豊かになっていると想像すること。食事の間は沈黙でしたが,それは,皆がお金と鮭に三昧になるためです。この食事の毎日礼拝は,おっぱいが恋しい思いを,心から優しい夢を大切にする物差しにしてくれます。このおっぱいが恋しい思いは,(アメリカ・インディアンの中では極めて例外的に)離乳がとても速く行われることから生じていました。後年(訳注:大人になる毎日礼拝を行う)「汗の家」の中で,お金のことに意識を集中させて,女性のことは一顧だにしないという,2つを1つにするキリストを学ぶことになるんです。ユーロック人は,大人になれば,シーズンオフでも、木々にはお金がなり,川には鮭が泳ぐのが見えるようになります。というのも,ユーロックの大人は,内的促しの中で「夢のような」思いは神々が実現してくれるものだ,と信頼しているからです。」
この礼拝の仕方は,幼子の心にも記しを残しましたし,日々のあたりまえの暮らしの中でモデルになる人が居ましたから,聖書の神様のいのちが一巡する道の全てで,(訳注:感動によつて生かされる人生をプレゼントしてくれる)似たような毎日礼拝を礼拝にすることになりました。というのも、子どもを心から大切にすることは,時に適った毎日礼拝の流れ全てに,「2人がピッタリと一心同体に成ること」と「切っても切れない絆」のギフトをプレゼントしようとします。
毎日礼拝の第2の元は,「その子が自由に歓んで関わる意志」を強調することが,毎日礼拝の第一の元と主に違います。赤ちゃんの時期の第1礼拝では,危機回避は,お母さんの責任でしたが,第2礼拝では,子ども自身が「自分に注意する」ように訓練されなくてはなりません。この目的のために,両親や目上の人たちは,その子(その子の顔)と,注意していないとこうなりますよと言う場合に「なるかもそれない」失敗したダメな私とを比較します。ですから,これこそが,「ダメな一心同体」の大元になりま,この「ダメな一心同体」こそが、「人間を上下2つに分けるウソ」が続く大元になります。なぜならば,「ダメな一心同体」は,自分がそうなるはずはないけれども,万が一そうなるかもそれない全てを具体的に示すからです。「ダメな一心同体」は,「人間を上下2つに分けるウソ」のよそ者のイメージに必要なものを全て整えます。「人間を上下2つに分けるウソ」は、自分の仲間を受け容れてもらうために,似てはいけないものです。空恐ろしい絵の後ろには,両親そのものがそうはならないようにしているイメージで,子どもがそうなることを疑い深く恐れているイメージがある場合がよくありますから,「歓び溢れる主キリスト」が打ち込まれる弾丸は,子どもがそういう者にならないようにイメージできるようにならなければならない人になります。自分が2つにバラバラになり,隠れた恥じが,自分の一部を「外に出す」必要と激しい怒りを押さえつける必要と結びついて,人間の中にかなり「●●ねばならないと感じる激しい怒り」を作り出したんです。この「●●ねばならないと感じる激しい怒り」がありますと,親同士が喧嘩したり,親が子どもと喧嘩したりする喧嘩の元です。それに,この「●●ねばならないと感じる激しい怒り」がありますと,バラバラに2人の自分が喧嘩します。事の次第を暗く申し上げるのは,子どもが1歳か2歳の時にこそ,「人間を上下2つに分けるウソ」の元があるからなんです。●●ねばならないことのせいで自分が2つの分裂することは、悪い他者に敵対する態度が吹き込まれることで先鋭化します。悪い他者に敵対する態度が吹き込まれることは,小さな子どもが嫌いな自分を相手のせいにして見る影になります。またこの悪い他者に敵対する態度は,後々,「正しいこと」を残酷に人に押し付ける差別になります。そして,「正しいこと」を残酷に人に押し付ける差別は,ウソを生きる、2つに自分が分裂したご当人にとって最大の危機になります。しかし,ご当人の「自分のことをダメと信じる身勝手な判断」は,強迫性障害,ねばならないと思う病、うつ病の元です。他方,他者をダメだと信じる理屈に合わない判断は,沢山の人のダメな判断と近代兵器が揃えば,1つになるはずの水辺で、大人になれないままで人類滅亡になります(エリクソン,1965)。これらのこと全てから,本物の毎日礼拝が,言葉と音色で,振舞い方のルールを伝える,個人や組織を超えた祈りとして大切なことが分かります。個人や組織を超えた祈りとなる言葉と音色をその子どもは体得底で身に着けていますし,その子が手にする様々な立ち位置の中でも,本物の毎日礼拝は,振舞い方のルールを伝える,個人や組織を超えた祈りとして大切なことが分かります。
ところが,「賢い判断をする言葉を伝える日常生活の礼拝」の中で心豊かに働く中で,賢い判断をすることが大掛かりに繰り返し肯定されますから,ひとりびとりの心の中で起きていること全てが,白日の下に晒されて,出来事になります。「ねばならない決まり」は,あらまぁ、私どもの良心同様,疑り深いんです。「ねばならない決まり」は,ピッタリなスケープゴートをでっち上げて,「見せしめ」とします。その見せしめには,みんなが心の中に持っている恥を投影します。自分を監視して繰り返し思い出し深まる恥じは,親の叱責,友達の囃し立て,周りの者たちの輪になった声と同じで,そのたびごとに食い違っていることとと,ピタリと呼応します。最後の審判が,結局,みんなの前でハッキリとさせることは,私憤や自分の恨み辛みを晴らすもんだ、ということではなくて,本人の同意がいる、ということなんですよ。悔やんでも罰を認めない所でも,真実が罰を課すことになります。
子どもの頃に善悪の境界線を作り出す日常生活の礼拝と大人の世界の裁判はどちらも,前に示しました日常生活の礼拝の判断基準,すなわち,互いに大切にし合いなさいというキリストの新しい約束(訳注:ヨハネによる福音書第13章34節他)を守ることと,日常生活の礼拝では細部と全体の両方に気を配ることを,溢れるほど満たします。それは,日常生活の礼拝に参加する2人の実感や行いそのものを超越する,キリストを信頼して,互いに大切にし合う関わりがある,ということです。つまり,理解し合った仲間全てを,互いに大切にし合うことです(願わくば,スケープゴートになった自白した犯人も,その仲間になれますように)。それに,私は地球よりも重たい,掛け替えのない私だと実感する心の習慣は,自分を心から自由にするものですから,毎日礼拝が必要不可欠であることは,人間の「本能みたいなもの」と思われます。賢い判断をする原理は,人が本当の自分を創造発達させるのにも不可欠だけではなくて,創造発達が一心同体の仲間を作り出す上でも,必要不可欠です。
しかしながら,賢い判断をする原理が,公の場でも私的な場でも,うまく働いているのか見てみると,賢い判断をするに日常生活の礼拝がうまく働かない場合,倫理が世代から世代へと継承されないことも見て取れます。
賢い判断をする原理は,平たく言えば、寛容で良識的で心優しい判断です。「許し」の教えです。
いまのニッポンみたいに,私利私欲ばかりで,大バカな安倍晋三首相の元では、ウソとゴマカシが,洪水みたいに世の中を覆いつくしている現状です。
#過去は強烈に現在に食い込む #過去は超自我を召使にするから #自由になる戦略
#トラウマ理論 #遊び #新しい人になる源となる 現世考: 津久井やまゆり園の犯人は発達トラウマ障害(DTD) オバケと蝋人形 相応しくない者もいただけ......
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Toys and Reasons. 『おもちゃ と 賢慮』から。
p.46のブランクから。
今朝は,p.49の,第2パラグラフの20行目から。
シカゴのシンポジウムで,ルネ・スピッツは,自分とデンバーの仲間たちの最近の観察と考察について報告してくれました。それは赤ちゃんの中で,実感が体得底で最初に生まれる時の,視覚の役割に関する報告でした。視覚のギフトは,他の五感,味覚・聴覚・嗅覚・触覚から得るお知らせを味わう時に最初の役立つことにある,とスピッツは教えてくれました。「視覚は,赤ちゃんが育つ世界,そこはもともと,聖書の神様と共に見る見方が支配的でしたのに,その赤ちゃんが育ちの世界の中に,新しくて,人生を左右する,聖書の神様に背く見方をもたらします。聖書の神様に背く見方のおかげで,その子どもは時間も空間も永遠に続くと思うようになります」。スピッツが言うのには,3か月までの間に,赤ちゃんは見てわかることが育って,一纏まりの景色を覚えていられるまでになる,ということでした。つまり,その赤ちゃんが見た景色が,いまここで,口が満足したことや五感が満足した,生かされている歓びと一体となって,いつまでも続きます,ということでした。つまり,赤ちゃんが目で掴み取った様々な景色は,口周りや五感が満足して,赤ちゃんが実感した生かされている歓びと一体となり,いつまでも続く,という理に適っていますし,聖書の神様の生き方にも適って,不動にされた,その判断には,聖書の神様からの力があるのです。赤ちゃんが実感した生かされている歓びは,おっぱいをもらうこと,抱っこしてもらうこと,肌と肌が触れ合っていること,お尻をサッパリにしてもらうこと,「聖書の神様のいのちが一巡する結界にピッタリとはまり込むこと」からくるんです。このように,様々な場面でお母さんが赤ちゃんよりも下に立ってくれるお陰で,お母さんの顔は,赤ちゃんの探している2つの眼に「光をプレゼントする」ことになります。そのようにして,その母親も,私は私の赤ちゃんの「聖書の神様のいのちが一巡する結界」にピッタリな最初の相手になれた,と腑に落ちることができます。それに,赤ちゃんが2つの眼を見開いておっぱいを飲むと,オッパイをしゃぶりながら,お母さんの顔をじっと見つめるものでしょ。このようにして,赤ちゃんが眼にしたものが,感覚とアタッチメントの場を纏めるために、出す時だけでなく受け容れる時に道しるべになる最大の物差しになります。その最大の物差しは,赤ちゃんが「1人のお母さん」と触れ合うことによってメモリがつけられているんですから。これがなるほど本当だと信頼するには,視覚によって確かになるものを数えあげるだけで足りるでしょう。時間が同じである物事と,同じ空間が続いていること,ずっと残るのは聖書の神様に心から歓んで従うことですし,共に居ることが溢れるほどの恵みであると心底分かること,身近に見える姿と背後にある違いを超えた一体感,パートナーが不動にされ自由にされる結界の中で,ピッタリの人が,パートナーの息に自分の息を合わせると,一心同体に成れることにこの世を超えて感動すること,これら全てが一体になるのは,聖書の神様みたいに「とっても善いよ」と認める人が,願った時にはいつでも共に居てくれることで、初めて実現します。これは,のちのち,単なる事実を包み込む「なるほど本当だね」と実感する実感の大元になります。まもなく,聴く力が不可欠で役立つ力になるのは,自然の成り行きです。それは,眼には見えいな世界のことを教えてくれるからですし,聴く力は,「曲がり角の先」からあの嬉しい声が聴こえてきますし,馴染んだお母さんを確かめることができますよ,という希望を強めてくれます。赤ちゃんの時期に,お母さんの姿が見えるし,お母さんのの声が聴こえるという,母親を二重に徹底的に心いっぱいに味わうことが,いつも大事だと分かるのは,お母さんが赤ちゃんを唯一の名となる呼び名で声を出して何度でも「繰り返し善しと認める」ことになるのと同時に,名付けたお母さんが,赤ちゃんを認めてくれる人として赤ちゃんから繰り返し善しと認められることを心から歓ぶからです。(訳注:エリクソンの奥様)ジョアン・エリクソンが言うように,「人生は,眼差しによって,繰り返し,始まります。…触れ合いが心から大切にすることになるのも,バラバラでいると激しい怒りになるのも,眼差しと関係します。大人になっても,このように眼差しが物を言うことに変わりはありません。と申しますのも,生涯にわたって,私ども人間が仲間内で他者といろいろとやり取りするのは,眼差しに温もりがあるからでしょ。お母さんから見られることに始まる眼差しは,恵みですし,同時に,呪いです」。
知ることと実感が一体で育つこの場では,眼差しの力は,申し上げて来た2つの意味でハッキリと現れます。つまり,事実だと分かったことを完熟した五感を用いて,あらかじめ善く理解すること,しかし,そればかりではなくて,十分に繰り返してもらったと分かったことは,もう一度手に入ると信頼することです。
それにしても,こういうこと全ての遊びに何の関係があるんでしょうか? ヘインツ・ワーナー・レクチャ―で,ブルーナーが述べたことは「赤ちゃんは,感覚器官を通じて,感覚器官を使って,感覚器官を使って動かす力をはるかに超えた心の習慣を生み出します」ということでした。その結果「最初に関わってくれた人と一緒にならなくても,赤ちゃんは長い間その人を良く見ていますから,その場になれば,おのずと,最初に関わってくれた人の関わり方に身を入れることになります」って。眼差しが一番大切なことをスピッツが強烈に主張してくれたおかげで、私は,ブルーナーが魂に火を点ける苦心の実験を描いてみましょう。すなわち,生後半年の赤ちゃんは,おっぱいを吸う力と結びついていますから,おっぱいを吸う力は,聖書の神様のいのちが一巡する場になるか否かで,寝ぼけた絵か,ありがとうと言いたくなる絵を,母親の顔に書くことになります。ブルーナーは「人間は赤ちゃんの時から,善い相手を見ると,見ることに集中して,ハッキリと見えますから,おっぱいを吸うのを忘れるほどですから,新生児が心底求めるニーズは,パンや慰めを求めるニーズだけじゃないことが分かります」と話を纏めます。
自明の理として申し上げるのは,赤ちゃんが五感,特に眼差しを使ってめぐり探している,ということですし,繰り返し見失って繰り返し見つけた相手を繰り返し大切に思うことが,「2人が夢中になる」最初の大切な関わりになる,ということです(この「2人が夢中になる」最初の大切な関わりは,いないいないばあっ みたいな遊びになります)。この「2人が夢中になる」最初の大切な関わりは,笑顔の王冠で輝いています。それは,生後12週で,お母さんの顔という「天国の印が顕現する場」に立たされてハッとするからこその,輝く笑顔の王冠です。もちろん,赤ちゃんの輝く笑顔の王冠そのものが,お母さんが子どもに気付き,心から大切にしたいと思う(recognitionのあらゆる意味で)点で,唯一無二の誘い水になります。自由な大人になった者が子どもに気付き,心から大切にしたいと思うのは,新生した者だけがもたらしうる思いです。なぜならば,輝く笑顔の子は,その笑顔に接した大人が,自分が聖書の神様のいのちが一巡する中にあり,新生した、と実感することに役立つ力がありますから。
そして,いつものようにピアジェさんの登場です。(訳注:ピアジェさんの代表作)『子どもの中に実感を育てること』の冒頭で,「ずっと残るものからできている世界は,…死と再生を繰り返すことなく,因果の法則に従う時空です。ですからね,世界は,確かに外にある,唯一の世界になりますし,その外なる世界の中で,あらゆる言葉がある中で,人は自分をのことを固有名詞で呼びます」とピアジェさんは言います。是非心に刻んでおいてほしいことは,理性の塊であるピアジェさんの議論の真ん中に,「死」と「再生」という実存的な言葉が不意に見つかることです。私ども夫婦は,これを最大限生かしましょうね。と申しますのも,赤ちゃんのことで描き出していることは,人間が自分のスピリットをイキイキと生かしたいと願うのは人間の最深欲求からだ,と私は信じているからなんです。あるいは,もっと創造的に申し上げれば、私どもが見て「手で触れる」ようになった事実に意味をもたらす実感にとって,キリストの「死」と「再生」は,根っこにあることです。心にどんなイメージを抱くかという心の習慣にとっても、キリストの「死」と「再生」が根っこにあります。このキリストの「死」と「再生」が根っことなった心の習慣のおかげで,人間は,全ての創造発達の舞台,すなわち,生涯にわたって,聖書の神様の心から優しい思し召し通りに創造発達する中で,シャローム心からの平和を,繰り返し確実に実感することができます。つまり,爪弾きにされ,相手にもされずにいるよりも,生かされている実感が胸いっぱいに満たされる中で生きたいのです。自分から人に関われず、助けてももらえないのでなく,自分から人を大切にする関わりができて,それを遂げることができます。
ここも神の国の話です。
#本物のキリスト者 には #ウソのない生活 と #不思議な声 が必ず #人生の習慣 になる
#陽気で楽しい時空の実力 #トラウマ体験 が #新しい人になる源となる インターメッツォ: エリクソンの叡智: 日常生活の≪超越性≫ 愛着障害の子ども等が......
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Identity :Youth and Crisis 『聖書の神様と一心同体に成ること : 若さと危機』
p.170のブランクから。
今朝は,p.172の,16行目から。
備忘録的に,p.168の第2パラグラフも残します。
忘れてはならないのは,気持ちがピッタリと分かり合って腑に落ちることの反対は、人に馴染めず心がバラバラだ,ということです。つまり,1番親しい母親は,いまここにあると,母親には不都合な強さや不都合な人たちを,裏切り,見て見ぬふりをして,殺してしまいやすい、ということはね,忘れてはなりません。一纏まりの人や思いに馴染むことは,別のまとまりの人や思いを上手に裏切ることなしには,あり得ませんでしょ。このように,忖度と裏切り,それは,一番親しいはずの母親と一心同体に成ることできなかったために,最深欲求を満たすことができない人のいつもの心の態度になります。最深欲求が満足していない人って,自分の「良心」に確信を持てませんから,不正な誘いを断る賢さがありません。
…
いつも生真面目
一心同体に成り損ねることが深いと,務めを果たす者の心の習慣が非常におかしなことになります。それは,求められたことやそれとなく促されたことに集中できない形になるか,例えば本の読みすぎみたいな,つまらないことに破滅的に囚われます。このような患者さんが,治療中に,いったんは見失った,務めを果たす者の心の習慣を心の中に取り戻す活動を見付けることがありますが,それ自体がとても大切なことなんです。ここで心に刻んでおいたほうが善いのは,思春期や青年期の前の発達の舞台,すなわち,小学校の時期です。小学校の時期は,自分の文化社会の読み書きそろばんを分かち合うことが必須科目として教えられますし、務めを果たす者の心の習慣と務めを分かち合う心の習慣にピッタリな時期と聖書の神様のいのちを分かち合い全うする,お務めを与えられます。これまで見てきましたように,小学生のころエディプス期(訳注:だいたい3歳~6歳)の後に来ることが,とても深い意味がありますね。すなわち,男と女としてでも,馴染みとしてでもなく,お務めを果たす者として,聖書の神様を信頼する信頼を代々伝えた者として,両親ともう一度一心同体に成ることをやり直すことを,仲間たちが許す,仲間になる掟を身に着ける点で,単に陽気で楽しい歓びと言うのではない,実感のある段階を全うする,ということです。このようにして,親と共に育つ,親みたいになる可能性が少なくとも1つ,しかも,「自分ならではの」親みたいになる可能性を育てることになります。大元になる判断を実際に自分で判断してみるという手にとって分かる目標を,心豊かになる学びの場((訳注:アメリカ・インディアンの)「汗をかく家」,お御堂,釣り場,作業場,調理場,学校)では,同じくらいの年齢の仲間と分かち合うことになります。そういった場所は,場所的に家からも,母親からも,幼い時の記憶からも,切り離された場です。しかしながら,この心豊かな大人になる学びの場は,男女をどう扱うかという点では,大きな違いがあります。お務めの目当ては,幼な子が本能で望むものことを押さえつけることを強めたり,利用したりするだけではないんです。私が歓ぶ歓びを強めることも,お務めの目当てになるんです。というのも,お務めの目当ては,生きている実感をみんなで共有する中で、具体的な手立てや物を用いて,唯一無二の共に心豊かになる関わりをもたらすからなんです。受け身で体験したことを能動的に経験しなおしたい私は,生きている実感をみんなで共有する中で、具体的な手立てや物を用いて,唯一無二の共に心豊かになる関わりをすもたらすことで,日の目を見る新たな場を手に入れます。それは,多くの点で,幼いころの空想や遊びで,受け身で体験したことを能動的に経験しなおすことに勝ります。と申しますのも,自分から人に関わりたいし,働きも仕事もしたいと願う内的促しが,仲間の実感を分かち合う中で,やりたいと願う願いとチャンスの息が,仲間とピッタリと合うからです。
しかしながら,作品を残すお務めを果たす者と一心同体に成ることが始まる前に,エディプス期があるために,苦しんでいる若者達の中にある,作品を残すお務めにピッタリと相応しい心の習慣は,エディプス期のぶつかり合いと兄弟間の敵に備えて武装し,逆戻りすることに相場が決まっています。一心同体に成り損ねると,集中できないだけではなくて,競争相手を忌み嫌うことに加えて,競争相手に意識過剰になります。こういった苦しみを抱く者たちは,知的で,有能で,事務仕事や学問やスポーツも卒なくこなしますが,いまここで,作品を残すお務め,魂の鍛錬,心からの楽しみの分かち合いができません。また,家族や人のために夢中になる,三昧になる,という,魂を繋ぐ最も大切な関わりもなくしていますし,悪だくみといつも何となく感じる不安にメゲナイ,聖書の神様のいのちの一番の印もなくします。その代わり,赤ちゃんの頃の数々の目当てと空想が,大人になってセックスができる身体と,憎悪に満ちた攻撃的な力をから生じる強烈なエネルギーを持ちます。1人の親が目当てになり、もう1人の親は,繰り返し,重しになります。しかし,このことが繰り返し甦らせるものは,エディプス期(訳注:3歳~6歳ころ)の諍いは,セックスをする相手を争う争いではないし,セックスをする相手を争う争いのはずなんてありえません。エディプス期の諍いは,一番最初の源に向き直ることなんですよ。つまり,エディプス期の諍いは,赤ちゃんの時の,心が驚き感嘆するヌミノースが溢れ出す予定の自分を取り戻そうとする試みです。また,子どもの頃に一心同体に成り損ねてぐらついている自分を,もう一度作り直そうとする試みでもあります。別の言い方をすれば,(訳注:聖書の神様の創造発達計画の中では,赤ちゃんの時には,心が驚き感嘆するヌミノースが溢れ出すはずの自分に)生まれ変わりたいんですし,生きている実感と互いに大切にし合う関わり合いを始めに創造した,唯一の聖書の神様の心からの優しさを体得したいんです。それに,創造の初めに完全に戻る,ということなんですよ。創造の初めに完全に戻るとは,共に触れ合い,自分から相手を大切にする関わりを始めて,一心同体に成る神の国を育てることです。
創造の初め。
それはまさに,神の国です。
神の国は日常生活のただなかにあります。