エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #単独者の恵み #イライラの元

2020-03-08 07:50:45 | 聖書の言葉から
 
#ニューロフィードバック #PTSDに効く

 #聖書の言葉 #1人豊か #容れ物 聖書の言葉: 息と笑顔  この女子高生は,ブログの内容と関係ありません。  7つの舞台の果実 : 揺ぎ無い確信   反抗的人間......
 

「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。

 

生きているのに
死んでいるあなたへ

 

今朝も,ヘンリー・ナウエンさんの言葉から。

 

 

人がイライラ

 

するのは

 

腑に落ちる感じ

 

が全くないからです

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#不満な人生の始まり #腑の落ちない私の始まり

2020-03-08 07:34:32 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 
#聖書の言葉 #単独者の恵み #ホッとできる恵み

 #プロザックの効き目 性的に虐待されてきた娘たちの,危うい育ち    何があっても 「大丈夫!」   おとぎ話の鈴鳴らし  自然の力や神の意思を感じていたい。 T......
 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  

をご参照ください。  

 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。 

 p.117の,ブランクから。

 今朝は,p.118の,3行目から。

 

自分が体験した両親と生きる

 

 子ども等は誰でも,お母さんにピッタリとくっついて一心同体に成る生物的な本能があります。なのに,子どもには選択肢が1つもないんです。その子等の両親や育ての親が,心から優しくしてくれて,大事にしてくれるのか? それとも,よそよそしくて,鈍感で,相手をしてくれず,粗末にするのか? によって,その子等は,少なくともいくつかのニーズを手に入れようとして,コッソリと打つやり方を育てることになります。 

 私どもがこのコッソリ打つやり方になりかねない振舞い形を評価し,身に着けて来たのは,2人のアメリカ人科学者,メアリー・アインズワースと、メアリー・メインの業績のおかげです。また,2人の仲間は,何千時間もかけて,お母さんと赤ちゃんの観察を,何年にもわたって,行ったんです。こういった地道な研究に基づいて,エインズワースが作り出したのが,「見慣れたお母さんが居ない場面(ストレンジ・シチュエーション)」と呼ばれる研究法です。それは、赤ちゃんが一時お母さんから離れたときに,赤ちゃんがどのように反応するのかを観る方法です。かつてボールビーが観察したように,安心してお母さんにくっついて一心同体に成った赤ちゃんは,あ母さんが見えないと強い不安に陥りますが,お母さんが戻れば,歓びますし,束の間安心を取り戻すと,落ち着いて遊びに戻ります。

 しかし,安心してくっ付けないせいで,一心同体に成り損ねた赤ちゃんは,その赤ちゃんが描く絵はもっと複雑です。お母さんが振り返ってくれず,見て見ぬふりをする子どもは,不安に処するのに2つの方法を用います。研究者たちが気が付いたのは,いつもイライラしていて,お母さんに対して不満タラタラの子もいれば,おとなしくて,引っ込み思案の子もいる,ということです。どちらの集団も,お母さんと触れ合っても,気持ちを落ち着けることができませんから,安心してお母さんにくっ付いて一心同体に成れた子ども等みたいに,満足して遊びに戻れません。

 

 お母さんと一心同体のなり損ねて不安になるのが,不満の人生の初めですし,腑に落ちない私の始まりです

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#虚無感の蔓延 #普通に見える家庭の異常

2020-03-08 07:09:08 | エリクソンの発達臨床心理
 
#正しい行いを目指す生き方 という  #悪い良心の偶像

 #最初のやり取り #自分の音色にピッタリ #微笑みの力 と #母親の顔 現世考: 津久井と小金井から    何があっても 「大丈夫!」   おとぎ話の鈴鳴らし......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  

をご参照ください。 

 Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」

イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。

 p.343の第4パラグラフから。

 今朝は,p.344の,第2パラグラフ,10行目から。

 

 子どもの頃に善悪の境界線を作り出す日常生活の礼拝と大人の世界の裁判はどちらも,前に示しました日常生活の礼拝の判断基準,すなわち,互いに大切にし合いなさいというキリストの新しい約束(訳注:ヨハネによる福音書第13章34節他)を守ることと,日常生活の礼拝では細部と全体の両方に気を配ることを,溢れるほど満たします。それは,日常生活の礼拝に参加する2人の実感や行いそのものを超越する,キリストを信頼して,互いに大切にし合う関わりがある,ということです。つまり,理解し合った仲間全てを,互いに大切にし合うことです(願わくば,スケープゴートになった自白した犯人も,その仲間になれますように)。それに,私は地球よりも重たい,掛け替えのない私だと実感する心の習慣は,自分を心から自由にするものですから,毎日礼拝が必要不可欠であることは,人間の「本能みたいなもの」と思われます。賢い判断をする原理は,人が本当の自分を創造発達させるのにも不可欠だけではなくて,創造発達が一心同体の仲間を作り出す上でも,必要不可欠です。

 しかしながら,賢い判断をする原理が,公の場でも私的な場でも,うまく働いているのか見てみると,賢い判断をするに日常生活の礼拝がうまく働かない場合,倫理が世代から世代へと継承されないことも見て取れます。シックリとこない感じが内心あるのは,怖いからそうしなくっちゃという気持ちが,正しいと感じることに自由に賛成する気持ちに,とってかわります。あるいは,強迫的に中身のない言葉を口にする人が跋扈して、確信をもって日常生活の礼拝にする者虐めます。賢い判断が台無しになるのは,自己愛過剰のためですから,賢い判断も,「正しいこと」を無慈悲に人に押しつれることになるか,感情的な覗き趣味になるのが落ちです。自己愛過剰はおしなべて,(訳注:厳罰化を主張して)犯罪者を絶望的な孤立に陥れますし,生きる力にならない激しい怒りをますます悪くします。犯罪者を絶望させたり,激しい怒りをますます悪くしたりすれば,ご当人を「恥知らず」にするだけです。このように,毎日礼拝が後回しにされたり,歪んだりしますと,どなたにでも心を空っぽにして心響かせる心の習慣を作り出すのではなくて,いつ爆発するか分からない,生きている実感のない虚しさをもたらします。この生きている実感のない,いつ爆発するか分からない虚無感こそ,このシンポジウムが深く注意を払わなければならない相手です。と言いますのも,「善良な」普通に見える人でも,キリストの恵みに満ちた毎日礼拝というギフトを見失ってしまえば,青年期の子どもが横道をそれてしまうのは何故かを説明してくれるからです。

 

 

 普通に見える家庭の子が,現実には粗末に育てられていて,発達トラウマ障害の子ども,青年,大人,中年,初老になって,満ち溢れている,ニッポンです

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#聖書の神様を信頼すること #キッパリ

2020-03-08 06:05:00 | エリクソンの発達臨床心理
 
 



#天国の秘密 #アガペーの神様 #陽気で楽しい歓び = #自由の唯一の証

 #根源的信頼感 #根源的不信感の深さ インターメッツォ: エリクソンの叡智:  ヴィジョンの実力    偉大な子ども   反抗的人間 Noとハッキリ言う≪市民的勇......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  

をご参照ください。

    Toys and Reasons. 『おもちゃ と 賢慮』から。

  p.46のブランクから。

 今朝は,p.50の,2行目から。

 

 シカゴのシンポジウムで,ルネ・スピッツは,自分とデンバーの仲間たちの最近の観察と考察について報告してくれました。それは赤ちゃんの中で,実感が体得底で最初に生まれる時の,視覚の役割に関する報告でした。視覚のギフトは,他の五感,味覚・聴覚・嗅覚・触覚から得るお知らせを味わう時に最初の役立つことにある,とスピッツは教えてくれました。「視覚は,赤ちゃんが育つ世界,そこはもともと,聖書の神様と共に見る見方が支配的でしたのに,その赤ちゃんが育ちの世界の中に,新しくて,人生を左右する,聖書の神様に背く見方をもたらします。聖書の神様に背く見方のおかげで,その子どもは時間も空間も永遠に続くと思うようになります」。スピッツが言うのには,3か月までの間に,赤ちゃんは見てわかることが育って,一纏まりの景色を覚えていられるまでになる,ということでした。つまり,その赤ちゃんが見た景色が,いまここで,口が満足したことや五感が満足した,生かされている歓びと一体となって,いつまでも続きます,ということでした。つまり,赤ちゃんが目で掴み取った様々な景色は,口周りや五感が満足して,赤ちゃんが実感した生かされている歓びと一体となり,いつまでも続く,という理に適っていますし,聖書の神様の生き方にも適って,不動にされた,その判断には,聖書の神様からの力があるのです。赤ちゃんが実感した生かされている歓びは,おっぱいをもらうこと,抱っこしてもらうこと,肌と肌が触れ合っていること,お尻をサッパリにしてもらうこと,「聖書の神様のいのちが一巡する結界にピッタリとはまり込むこと」からくるんです。このように,様々な場面でお母さんが赤ちゃんよりも下に立ってくれるお陰で,お母さんの顔は,赤ちゃんの探している2つの眼に「光をプレゼントする」ことになります。そのようにして,その母親も,私は私の赤ちゃんの「聖書の神様のいのちが一巡する結界」にピッタリな最初の相手になれた,と腑に落ちることができます。それに,赤ちゃんが2つの眼を見開いておっぱいを飲むと,オッパイをしゃぶりながら,お母さんの顔をじっと見つめるものでしょ。このようにして,赤ちゃんが眼にしたものが,感覚とアタッチメントの場を纏めるために、出す時だけでなく受け容れる時に道しるべになる最大の物差しになります。その最大の物差しは,赤ちゃんが「1人のお母さん」と触れ合うことによってメモリがつけられているんですから。これがなるほど本当だと信頼するには,視覚によって確かになるものを数えあげるだけで足りるでしょう。時間が同じである物事と,同じ空間が続いていること,ずっと残るのは聖書の神様に心から歓んで従うことですし,共に居ることが溢れるほどの恵みであると心底分かること,身近に見える姿と背後にある違いを超えた一体感,パートナーが不動にされ自由にされる結界の中で,ピッタリの人が,パートナーの息に自分の息を合わせると,一心同体に成れることにこの世を超えて感動すること,これら全てが一体になるのは,聖書の神様みたいに「とっても善いよ」と認める人が,願った時にはいつでも共に居てくれることで、初めて実現します。これは,のちのち,単なる事実を包み込む「なるほど本当だね」と実感する実感の大元になります。まもなく,聴く力が不可欠で役立つ力になるのは,自然の成り行きです。それは,眼には見えいな世界のことを教えてくれるからですし,聴く力は,「曲がり角の先」からあの嬉しい声が聴こえてきますし,馴染んだお母さんを確かめることができますよ,という希望を強めてくれます赤ちゃんの時期に,お母さんの姿が見えるし,お母さんのの声が聴こえるという,母親を二重に徹底的に心いっぱいに味わうことが,いつも大事だと分かるのは,お母さんが赤ちゃんを唯一の名となる呼び名で声を出して何度でも「繰り返し善しと認める」ことになるのと同時に,名付けたお母さんが,赤ちゃんを認めてくれる人として赤ちゃんから繰り返し善しと認められることを心から歓ぶからです。(訳注:エリクソンの奥様)ジョアン・エリクソンが言うように,「人生は,眼差しによって,繰り返し,始まります。…触れ合いが心から大切にすることになるのも,バラバラでいると激しい怒りになるのも,眼差しと関係します。大人になっても,このように眼差しが物を言うことに変わりはありません。と申しますのも,生涯にわたって,私ども人間が仲間内で他者といろいろとやり取りするのは,眼差しに温もりがあるからでしょ。お母さんから見られることに始まる眼差しは,恵みですし,同時に,呪いです」。

 知ることと実感が一体で育つこの場では,眼差しの力は,申し上げて来た2つの意味でハッキリと現れます。つまり,事実だと分かったことを完熟した五感を用いて,あらかじめ善く理解すること,しかし,そればかりではなくて,十分に繰り返してもらったと分かったことは,もう一度手に入ると信頼することです。

 それにしても,こういうこと全ての遊びに何の関係があるんでしょうか? ヘインツ・ワーナー・レクチャ―で,ブルーナーが述べたことは「赤ちゃんは,感覚器官を通じて,感覚器官を使って,感覚器官を使って動かす力をはるかに超えた心の習慣を生み出します」ということでした。その結果「最初に関わってくれた人と一緒にならなくても,赤ちゃんは長い間その人を良く見ていますから,その場になれば,おのずと,最初に関わってくれた人の関わり方に身を入れることになります」って。眼差しが一番大切なことをスピッツが強烈に主張してくれたおかげで、私は,ブルーナーが魂に火を点ける苦心の実験を描いてみましょう。すなわち,生後半年の赤ちゃんは,おっぱいを吸う力と結びついていますから,おっぱいを吸う力は,聖書の神様のいのちが一巡する場になるか否かで,寝ぼけた絵か,ありがとうと言いたくなる絵を,母親の顔に書くことになります。ブルーナーは「人間は赤ちゃんの時から,善い相手を見ると,見ることに集中して,ハッキリと見えますから,おっぱいを吸うのを忘れるほどですから,新生児が心底求めるニーズは,パンや慰めを求めるニーズだけじゃないことが分かります」と話を纏めます。

 自明の理として申し上げるのは,赤ちゃんが五感,特に眼差しを使ってめぐり探している,ということですし,繰り返し見失って繰り返し見つけた相手を繰り返し大切に思うことが,「2人が夢中になる」最初の大切な関わりになる,ということです(この「2人が夢中になる」最初の大切な関わりは,いないいないばあっ みたいな遊びになります)。この「2人が夢中になる」最初の大切な関わりは,笑顔の王冠で輝いています。それは,生後12週で,お母さんの顔という「天国の印が顕現する場」に立たされてハッとするからこその,輝く笑顔の王冠です。もちろん,赤ちゃんの輝く笑顔の王冠そのものが,お母さんが子どもに気付き,心から大切にしたいと思う(recognitionのあらゆる意味で)点で,唯一無二の誘い水になります。自由な大人になった者が子どもに気付き,心から大切にしたいと思うのは,新生した者だけがもたらしうる思いです。なぜならば,輝く笑顔の子は,その笑顔に接した大人が,自分が聖書の神様のいのちが一巡する中にあり,新生した、と実感することに役立つ力がありますから。

 そして,いつものようにピアジェさんの登場です。(訳注:ピアジェさんの代表作)『子どもの中に実感を育てること』の冒頭で,「ずっと残るものからできている世界は,…死と再生を繰り返すことなく,因果の法則に従う時空です。ですからね,世界は,確かに外にある,唯一の世界になりますし,その外なる世界の中で,あらゆる言葉がある中で,人は自分をのことを固有名詞で呼びます」とピアジェさんは言います。是非心に刻んでおいてほしいことは,理性の塊であるピアジェさんの議論の真ん中に,「死」と「再生」という実存的な言葉が不意に見つかることです。私ども夫婦は,これを最大限生かしましょうね。と申しますのも,赤ちゃんのことで描き出していることは,人間が自分のスピリットをイキイキと生かしたいと願うのは人間の最深欲求からだ,と私は信じているからなんです。あるいは,もっと創造的に申し上げれば、私どもが見て「手で触れる」ようになった事実に意味をもたらす実感にとって,キリストの「死」と「再生」は,根っこにあることです。心にどんなイメージを抱くかという心の習慣にとっても、キリストの「死」と「再生」が根っこにあります。このキリストの「死」と「再生」が根っことなった心の習慣のおかげで,人間は,全ての創造発達の舞台,すなわち,生涯にわたって,聖書の神様の心から優しい思し召し通りに創造発達する中で,シャローム心からの平和を,繰り返し確実に実感することができます。つまり,爪弾きにされ,相手にもされずにいるよりも,生かされている実感が胸いっぱいに満たされる中で生きたいのです。自分から人に関われず、助けてももらえないのでなく,自分から人を大切にする関わりができて,それを遂げることができます自分だけ特別に見守られているのであって,感覚過敏になったり,無感覚になったりするんじゃない。中でも,試練を乗り越えて,生かされている実感が漲って生きるんであって,見て見ぬふりをされて,見捨てられるんじゃぁありません。これら全ての兆しは,あの生かされている実感が漲る意識の,朧げな始まりです。あの生かされている実感が漲る意識は,どの言葉でも,《私》と呼ぶようになりますし,あらゆる宗教では,神様から「とても善いよ」と言われる,いのちが一巡するど真ん中(訳注:救い主,キリスト)を求めることにもなります。ですからね,顔と顔を合わせることが,ルネ・スピッツやジョアン・エリクソンが指摘している様に,宗教的なイメージ(聖母マリアが首を傾げて、幼子のキリストと一心同体に成った光みたいに)を思い出させるものであるのならば,顔と顔を合わせることそのものが,聖書の神様を信頼する自分が創造される基になる,と言えますよね。聖書の神様を信頼するとは,唯一の聖書の神様がギフトして下さる「生かされている実感が漲り,生きているって素晴らしいと実感する私」の恵みで,こころの中心軸にある本当の自分が「とても善い」と認められることを信頼することです。

 

 

 エリクソンが,聖書の神様を信頼することを日常生活の中で取り戻すことを願っていたことが,キッパリと明確に示したところでしょう。

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#闇の力 #落とされていく人生

2020-03-08 06:01:22 | エリクソンの発達臨床心理
 
#天国の秘密 #アガペーの神様 #陽気で楽しい歓び = #自由の唯一の証

 #根源的信頼感 #根源的不信感の深さ インターメッツォ: エリクソンの叡智:  ヴィジョンの実力    偉大な子ども   反抗的人間 Noとハッキリ言う≪市民的勇......
 

「発達トラウマ障害 Enpedia」

をご参照ください。

 Identity :Youth and Crisis 『聖書の神様と一心同体に成ること : 若さと危機』

 今朝は,p.173の,1行目から。

 備忘録的に,p.168の第2パラグラフも残します。

 

 

 忘れてはならないのは,気持ちがピッタリと分かり合って腑に落ちることの反対は、人に馴染めず心がバラバラだ,ということです。つまり,1番親しい母親は,いまここにあると,母親には不都合な強さや不都合な人たちを,裏切り,見て見ぬふりをして,殺してしまいやすい、ということはね,忘れてはなりません。一纏まりの人や思いに馴染むことは,別のまとまりの人や思いを上手に裏切ることなしには,あり得ませんでしょ。このように,忖度と裏切り,それは,一番親しいはずの母親と一心同体に成ることできなかったために,最深欲求を満たすことができない人のいつもの心の態度になります。最深欲求が満足していない人って,自分の「良心」に確信を持てませんから,不正な誘いを断る賢さがありません

 

ダメだと言う人と一心同体に成るという選択

 お母さんと一心同体に成って,気持ちがピッタリと分かり合って腑に落ちる心の習慣がありませんと,家族や近隣の人々の中で,素晴らしいとか,望ましいとか思われている役割に対して,小ばかにし,鼻持ちならない敵意を抱くことになる場合が多いんです。人から頼られる役割は,おしなべて,腑に落ちる心の習慣がない若者がひどく毛嫌いする中心点になりがちです。

 

 悪びれる様子もなく悪いことをする人が居ますでしょ。津久井やまゆり園事件の犯人,植松聖さんみたいな人です。

 でも,植松聖さんは悪びれる様子もないのは何故なのかは分からない人が多いのも事実ではないですか?

 生きている実感がありませんと,腑に落ちる心の習慣がありませんと,自分の気持ちも人の気持ちも分かりませんから,人は闇に落ちていく者,悪に落ちていく存在なんですよ

 

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