エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#ノビノビ

2020-07-12 08:00:17 | エリクソンの発達臨床心理
 
#対等な関係 こそ #英知の源 #キリストのリアリティ

 #イメージの不思議 #能動受動が同時 #高エネルギー #気持ちがガラリと変わる, #態度もガラリと変わる #人生もガラリと変わる    発達トラウマ障害(DTD)......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」    

をご参照ください。  

 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。 

 p.124,ブラクラ後の,発達トラウマ障害治療の核心部分の,2度目の翻訳も修了。

 今朝は,p.214の,第4パラグラフ,3行目から。

 

 

心から安心できてノビノビすることが,自分の恐れや不安と向き合う時になくてはならない条件です。… セラピストが,自分を粗末に育てた人に似てないってことが,一緒にセラピーを最後まで終わらせることになるのは,私の経験で申し上げれば,患者さんたちが善くなるのは,自分のセラピストに対して,心の底から善い気持ちを抱く場合だけだからです。

 

 

 お堅いことは抜きです。ノビノビ。

 陽気で楽しい歓びがあると,必ずノビノビするの,お互いに。

 でも,意識してやっているけれど,わざとらしさはありません。

 自分の内から湧いてくるからこその,自然です。

 すると,不思議に心の底から善い気持ちが湧いてきます,お互いに。

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#聖書の言葉 #単独者の恵み #隠れている聖書の神様

2020-07-12 07:19:10 | 聖書の言葉から
 
#聖書の言葉 #単独者の恵み #畏敬の念

 #聖書の言葉 #1人豊か #聖なる神殿な2人   私の好きな聖書の言葉から。  キリストにおいて,1つの新しい人に創造された2人は,ピッタリと結びついて,主にある......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia
をご参照ください。



生きているのに
死んでいるあなたへ



今朝も,ジェームズ・フーストン James M. Houston さんの言葉からも

 

 

聖書の神様

 

 

心から安心できる場

 

心から安心できる場

 

なのは

 

隠されている

 

から

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#聖書の言葉 #単独者の恵み #人格は気高く発達する #その道

2020-07-12 06:53:28 | 聖書の言葉から
 
#恥 と  #実感

 #無意識をコントロールできるの? #皮質下の脳をコントロールできるの? #また明日 現世考: #電通過労自殺事件  #はした金さえ払えば殺してもOK #まるで軍隊......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia
をご参照ください。



生きているのに
死んでいるあなたへ



今朝も,ヘンリー・ナウエンさんの言葉から

 

 

聖書の言葉

 

 

私たちの中で

 

ゆっくり

 

血肉になる

 

 

私どもを

 

気高き生き方

 

に変えて下さいます。

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#生きる元気が萎む のは #生きている実感が抑圧 されるから

2020-07-12 06:30:00 | エリクソンの発達臨床心理
 
 


 
#対等な関係 こそ #英知の源 #キリストのリアリティ

 #イメージの不思議 #能動受動が同時 #高エネルギー #気持ちがガラリと変わる, #態度もガラリと変わる #人生もガラリと変わる    発達トラウマ障害(DTD)......
 

 

「発達トラウマ障害  Enpedia」
 
  をご参照ください。

 

 Childhood and Society から。p.61の第3パラグラフから。

 今朝は,p.62の第3パラグラフ,9行目から。

 

 

 たとえば,依存症の人たちは,赤ちゃんだったころの自分がしたみたいに,身体も満たされ,気持ちも元気になる様々な物を、口と肌で,取り入れて,その物と一体になることに依存しています。ところが,依存症の人たちは、喉から手が出る程,赤ちゃん返りを願っている、なんてことにはひとつも気付きません。依存症の人たちが,駄々をこね、鼻持ちならないことを自慢し、文句を付けるほど、それとは裏腹に,赤ん坊じみた魂が、ハッキリと表に出るだけなんですけどね。

 逆に,双極性障害(躁鬱病)の患者さん達は,何の望みもなく,空っぽで,物で満たすこともありません。つまり,ぶち壊しにしなければ,と思うような,悪い者や敵で満たすこともありません。あるいは,不意に良い気分が充満しますから,力が湧いてきて,元気モリモリになる気分が際限なく広がって,「そこまでにしておいて」という人の意見を受け付けなくなります。しかし,躁鬱病の人は,下に立つキリストも知らなけれは,良くも悪くも内的促しがどこから生まれてくるのかも知りません。

 ヒステリーの人達は,もしも,女性であれば,まるで,奇妙に物に付け込まれ,攻撃され,拒まれているようなのに,しかも,物に取りつかれているようでもあります。子どもを孕んだこともないのに,分析してみると,その女性が当て買われた最初の役目を示す出来事を孕んでいるんです。ヒステリーの人はその最初の女(男)性の役割に取りつかれているんですが,ただし(なぜなら),その最初の性役割は,はるか昔の子どもの頃にある,受け止めきれない体験になっています(から)

 こういったとても辛い思いをしている人達全ては,それが依存症でも,うつ病でも,気持ちを言葉にできない人でも,幼い頃のどこかの時を生かすことができませんから,幼稚な真似から自分を守ることになりますが,その守り方は頑固で,骨折りで,結局はうまく生きません。

 たほう,繰り返し押さえつけて,お務めをさぼる道を外れて病んだ,それぞれの人には,真実な関係を外れるのに相応しい共通の悪い相手がいます。元々の赤ちゃんの時のパターンからはかけ離れているけれども、口で感じた刺激か,口に貰った刺激から感じ取った性的に完璧に満足する喜びを得ようとする大人がいますでしょ。自分がセックスする時に入れる穴の中で,お尻好きの人も居ますでしょ。それに,性器を覗いたり,自分の性器を見せびらかしたりしたい罰当たりも居ますしね。また,衝動的に,しかも,手当たり次第に,他の人間を,単にイジメる「嬲り者」にするためだけの存在にするために,性器を使いたい輩も居ます。

 心病む人が無意識に望む性行為と 道を外れた者たちがあから様にやる行為の間に,相補的な関係があることを少なくとも理解していたので,フロイトさんは,スピリチュアルなエネルギーの宮を立ち上げることに前進したのです。ですからね,「スピリチュアルなエネルギーであるリビドー」は,半人前の2分の1エネルギーでして,この半人前の2分の1エネルギーは,子どもの時期に,性器以外の身体の周りにあって,食べ物を口に入れたり,お腹の調子を整えたり,手足を動かしたりすると,聖書の神様のいのちの分け前を、その時特有の気高い歓びで,気高い一人前のシャローム平和の歓びにしてくれます。半人前の2分の1エネルギーのリビドーを,子どもを作ることができない時期に,用いた後になって初めて,子どもの半人前の2分の1性は,ささやかないのちが息づく子どもの創造性へと,上手に発展していきます。ささやかないのちが息づく子どもの創造性が,すぐに大なり小なり,《目には見えない》ようになりますし,形も変わりますし,捻じ曲がってしまいます。と申しますのも,子どもの創造力は,まだ半人前だからです。それで,半人前の2分の1の願いの最初に相手をしたモノは,近親相姦禁止という世界の定めのゆえに,永遠に禁じられてしまっています。

 子どもができるようになる前にあった願いの残り物については,全ての子育ては,ある程度まで,創造するわけではない,2分の1遊びを許してくれますが,この2分の1遊び背いた迷いと呼ばれます。ただし,2分の1遊びが,創造主である聖書の神様の支配(訳注:聖書の神様のいのちが一巡する結界)をハイジャックし,追い出してしまいがちです。子どもを産めるようになる前のスピリチュアルなエネルギーであるリビドーの大部分は,しかしながら,「気高くされ」ます。すなわち,半人前の目的から一人前の目的に回心します。身体の中に隠されている「お母さんの本音」に敏感な子どものアンテナの割り当ては,人が教えや試練の “間” の下に跪きたいと願う願いを強めてくれます。あるいは,子どもは「英知の乳」を吸収するのに熱心ですし,その「英知の乳」にあっては,もっと本音に敏感な大人の器から,「なるほど本物だ」と,人智を超えているのに,手に取って分かるスピリットを頂きたいと願ったんです。あるいは,また,子どもは,自分の腹に詰め込みすぎる代わりに,心から優しい聖書の神様の器(訳注:)の中で,心から優しい出会いを1つにしてシャローム平和にしてくださいと祈っているんです。子どもができるようになる前の身体の時期は,発達し,気高くなり,あるいは,2分の1遊びを入ってもいいと認められるんではなくて,押さえつけられている心の向きの中に,フロイトさんは,生きる元気が萎む一番重たい源を見て取りました。

 

 

 ここもエリクソンが封印を猛烈に施しているところです。

 生きる元気が萎んでいくのは,生かされている実感押さえつけられるからです。それは一人ぼっちにされているからでもあります。発達トラウマ障害のみたいに。

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#本音を自覚しているのが大人 #忖度するのは未熟者

2020-07-12 04:56:00 | エリクソンの発達臨床心理
 
 



#チームワーク平和 #錦織

 #自分が不動にされる心の習慣 #体感の塊 #大丈夫? #腑に落ちてる? エリクソンの叡智: #人間力人品 #世代間伝達 #弱さも孫子の代まで    発達トラウマ障......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」    

をご参照ください。  

 

 今朝までは,Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.110,第2パラグラフから。

 今朝は,P.111,19行目から



 青年期と理想:

 本当の自分と真実




 青年のために予め用意された,箱だけで商品が入っていない偽の礼拝にする毒気は,「全体主義」です。この全体主義」は,硬直した様々な考えに囚われて,問答無用に掲げたお題目に,熱に浮かされながら,人をイジメながら,夢中になることです。この全体主義の道連れは,青年に特有な自己愛な(訳注:身勝手な、安倍ちゃんみたいな)人や,様々なイデオロギーにありがちな,聖書の神様でないものを,神として崇める偶像崇拝ですからね。それから,この「全体主義」は自己愛とピッタリですし,この自己愛は,ひとりびとりの若者に特有なものですし,イデオロギーが偶像崇拝になりやすいことに特有なものでもありますし,偶像崇拝に退行しているみたいでしょ。つまり,仲間内の理屈がない訳じゃない,ということです。さらに,聖書の神様と一体になる舞台は,「仲良くなる」の舞台とも一体です。すなわち,仕事,友達,大切な人と仲間になりたい気持ちの中で,いつも互いに大切にし合うサンガこそが,「仲良くなる」の舞台です。この青年期に聖書の神様と一体になる舞台は,日常生活を礼拝にするリストの中に,「自分から仲間になる」スピリットが加わります。青年期の舞台の,形ばかりで中身がない偽物の礼拝になる側面は,自己愛村でして,この自己愛村は,仲間以外をイジメる「上から目線の集団」になります。自己愛村 が仲間以外をイジメる「上から目線の集団」になるのが分かるのは,さもしさと偏見の巣窟と,熱狂的な意見や冷酷な厳罰,という,この世でお馴染みのお化けが,恋やお仕事,友情や絵空事で結びついた若者のお喋りや活動に広く行き渡りますから,人間が喉から手が出るほど求めているができます。このは,互いに挨拶し合う様々な場面で強まりますが,その挨拶とは,たとえば,鳥たちが「僕たちが生まれたのは,互いのためだね」という香りを出して踊ったり,「僕たちが生まれたのは,互いに大切にし合う約束をするためだね」とという香りを出しつつ踊ったりすることです。人間の一生の中では,その挨拶は,「僕たち2人が,互いに大切にし合って一心同体に成ること(あるいは,互いを完璧に満たし合うこと)は,僕たち2人が1つのペアに上手になることに相応しいし,互いに大切にし合って一心同体に成ること(あるいは,互いを完璧に満たし合うこと)は,互いに大切にし合う様々なペアから,創造しいのちをもたらすいのちの中で,互いに大切にし合う仲で仲間になることを約束することになりますよ」という気高い芳香を放ちます

 

 大人であること と 毎日礼拝で子どもに「あなたは気高い」と伝えること

 

 若者の見習い期間を終える「一廉の人物になる儀式」を経て,「約束をする儀式」が若い大人にプレゼントするのは,新たに一心同体になって仲間に成るスピリットに仲間入りする《免状》です。その《免状》は,聖書の神様のいのちの唯一の通り道を,新しく創造された者に,伝えることです。聖書の神様に頼る毎日礼拝は,聖書の神様のいのちの唯一の通り道を,新しく創造された者に,伝える点で,徹底して従順ですし,ハッキリしています。しかしながら,大人になってからの,腑に落ちる礼拝は,はるかかなたのご先祖様,歴史上の英雄,魂や神々,王様や創始者やお国に頼るものでも,腑に落ちるものであるならどの礼拝でも,子どもの頃や青年の頃の,何気ない毎日礼拝を繰り返し,強化するものに定められています。と言いますのも,大人になっても,子どもの頃の毎日礼拝を繰り返し強化するからこそ,スピリットを育てることが一体になるからです。腑に落ちる礼拝は,また,大人に対しても「あなたは気高い」と伝えます。と申しますのも,本物の大人になることには,毎日礼拝の司祭の車輪を回す点で,繰り返し力づけられたい,ということも入るからなんです。毎日礼拝の司祭の車輪を回す点で,繰り返し力づけられたい,という大人のニーズ(訳注:単数)とは,隣に創造された子どもの眼の中で,(訳注:聖書の神様みたいに)「とても善いよ」といつも頷いて一貫して肯定してくれる人のモデルに,心から歓んで成ることと,「いけないことはいけない」とハッキリと伝える者として,また,真っ当な気高い生き方をするのがミッションですと態度で示す者として,歓んで関わることと,ピッタリと重なります。毎日礼拝でのこの本物の大人の元気を,私は次世代を育てる元気だと申し上げたいんです。本物の大人の元気には,親や教員が子どもを育てることや,物を作り出したり,治療したりする時に弱い立場の相手を育てることも,子どもや弱い立場の相手を「とても善いぞ」と肯定する毎日礼拝になります大人は,聖書の神様から「とても善いぞ」と言われたキリストを身に着けて,「私は自分の本音を(訳注:キリストに救っていただいた者(キリストに聖書の神様の前で「とても善い」と肯定していただかなければならない者)でしかありません,と心底から)自覚しています」という確信に,繰り返し思い至らざるを得ない者でしかないことに決まっています繰り返し心から安心することって,へこまずに心満たされることが多いのは,父なる聖書の神様,最高の王様を,1人の親みたいな人格(人類を上下2つに分けるウソに騙されて,自分を高等民族と見る高等民族の仲間に親で,しかも,男親です)と見るお陰なんですね。その1人の親みたいな人格である聖書の神様は,聖書の神様が私ども人類を,聖書の神様のイメージの中で創造した時に,自分の本音を自覚していたのは間違いありませんでしょ。

 

 

 本音を自覚しているのが本物の大人です。本音を自覚しているので,本音と建前を分けることができません。

 忖度して,本音と建前を使い分ける人は,年齢的には成人していても,未熟者のままです。

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