エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#身体と脳の強烈な繋がり #分かっているようでチンプンカンプン

2020-08-23 10:01:13 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 
#生きるはキリスト の #魔法 と #油

「発達トラウマ障害」Enpedia  をご参照ください。    不思議な声が,またまたまた聴こえましたので,identity and the life cycle  『聖......
 

「発達トラウマ障害 Enpedia」    

をご参照ください。  

 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。 

 p.124,ブランク後の,発達トラウマ障害治療の核心部分の,2度目の翻訳も修了。

 p.74のタイトル。

 

 

 身体と脳は,様々に繋がっている

 

 

 

 当たり前すぎて,日ごろあまり意識しません。

 しかし,子どもが教室でウロウロしたり,急に声をあげたりする,身体の動きが,粗末な育ちをしてきたために,脳がまっとうな発達軌道をきざむことができず,扁桃体は大きくなりすぎているのに,海馬がありま育っていない,という脳の状況と結びつけられる教員はとても少なく,児童精神科医さえとても少ない,のが,コロナの今のずっと以前から続いています。

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#聖書の言葉 #単独者の恵み  #やさしい指針

2020-08-23 09:19:21 | エリクソンの発達臨床心理
 
#発達トラウマ障害 #歓びのない人生 #腑に落ちない人生

「発達トラウマ障害 Enpedia」  をご参照ください。 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mi......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。

 

生きているのに
死んでいるあなたへ

 

今朝も,ジェームズ・フーストン James M. Houston さんの言葉からも。
 


 
聖書の神様の指針

 

 

従うのは

 

次第に

 

やさしくなる

 

黙って待つのであれば

 

キリストと向かい合って

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#聖書の神様 #単独者の恵み #許しと感激

2020-08-23 07:53:59 | エリクソンの発達臨床心理
 
#発達トラウマ障害 #歓びのない人生 #腑に落ちない人生

「発達トラウマ障害 Enpedia」  をご参照ください。 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mi......
 

「発達トラウマ障害 Enpedia
をご参照ください。



生きているのに
死んでいるあなたへ



今朝も,ヘンリー・ナウエンさんの言葉から

 

 

 

許されます

 

 

感謝感激

 

を態度で

 

示すことになる

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#自分の音色を奏でる歓び #自分の音色が出ない悲しみ

2020-08-23 04:56:52 | エリクソンの発達臨床心理
 
#触れ合い から #生まれること #感じが善い or #暴力

「発達トラウマ障害」Enpedia をご参照ください。  また不思議な声が,聴こえましたので,久しぶりに,ジョアンの文章を。The life cycle compl......
 

「発達トラウマ障害  Enpedia」
 
  をご参照ください。
 
 Childhood and Society から。p.61の第3パラグラフから。
 今朝は,p.65,第3パラグラフから。
 
 
 たとえば,依存症の人たちは,赤ちゃんだったころの自分がしたみたいに,身体も満たされ,気持ちも元気になる様々な物を、口と肌で,取り入れて,その物と一体になることに依存しています。ところが,依存症の人たちは、喉から手が出る程,赤ちゃん返りを願っている、なんてことにはひとつも気付きません。依存症の人たちが,駄々をこね、鼻持ちならないことを自慢し、文句を付けるほど、それとは裏腹に,赤ん坊じみた魂が、ハッキリと表に出るだけなんですけどね。
 逆に,双極性障害(躁鬱病)の患者さん達は,何の望みもなく,空っぽで,物で満たすこともありません。つまり,ぶち壊しにしなければ,と思うような,悪い者や敵で満たすこともありません。あるいは,不意に良い気分が充満しますから,力が湧いてきて,元気モリモリになる気分が際限なく広がって,「そこまでにしておいて」という人の意見を受け付けなくなります。しかし,躁鬱病の人は,下に立つキリストも知らなけれは,良くも悪くも内的促しがどこから生まれてくるのかも知りません。
 ヒステリーの人達は,もしも,女性であれば,まるで,奇妙に物に付け込まれ,攻撃され,拒まれているようなのに,しかも,物に取りつかれているようでもあります。子どもを孕んだこともないのに,分析してみると,その女性が当て買われた最初の役目を示す出来事を孕んでいるんです。ヒステリーの人はその最初の女(男)性の役割に取りつかれているんですが,ただし(なぜなら),その最初の性役割は,はるか昔の子どもの頃にある,受け止めきれない体験になっています(から)。
 こういったとても辛い思いをしている人達全ては,それが依存症でも,うつ病でも,気持ちを言葉にできない人でも,幼い頃のどこかの時を生かすことができませんから,幼稚な真似から自分を守ることになりますが,その守り方は頑固で,骨折りで,結局はうまく生きません。
 たほう,繰り返し押さえつけて,お務めをさぼる,道を外れて病んだ,それぞれの人には,真実な関係を外れるのに相応しい共通の悪い相手がいます。元々の赤ちゃんの時のパターンからはかけ離れているけれども、口で感じた刺激か,口に貰った刺激から感じ取った性的に完璧に満足する喜びを得ようとする大人がいますでしょ。自分がセックスする時に入れる穴の中で,お尻好きの人も居ますでしょ。それに,性器を覗いたり,自分の性器を見せびらかしたりしたい罰当たりも居ますしね。また,衝動的に,しかも,手当たり次第に,他の人間を,単にイジメる「嬲り者」にするためだけの存在にするために,性器を使いたい輩も居ます。
 心病む人が無意識に望む性行為と 道を外れた者たちがあから様にやる行為の間に,相補的な関係があることを少なくとも理解していたので,フロイトさんは,スピリチュアルなエネルギーの宮を立ち上げることに前進したのです。ですからね,「スピリチュアルなエネルギーであるリビドー」は,半人前の2分の1エネルギーでして,この半人前の2分の1エネルギーは,子どもの時期に,性器以外の身体の周りにあって,食べ物を口に入れたり,お腹の調子を整えたり,手足を動かしたりすると,聖書の神様のいのちの分け前を、その時特有の気高い歓びで,気高い一人前のシャローム平和の歓びにしてくれます。半人前の2分の1エネルギーのリビドーを,子どもを作ることができない時期に,用いた後になって初めて,子どもの半人前の2分の1性は,ささやかないのちが息づく子どもの創造性へと,上手に発展していきます。ささやかないのちが息づく子どもの創造性が,すぐに大なり小なり,《目には見えない》ようになりますし,形も変わりますし,捻じ曲がってしまいます。と申しますのも,子どもの創造力は,まだ半人前だからです。それで,半人前の2分の1の願いの最初に相手をしたモノは,近親相姦禁止という世界の定めのゆえに,永遠に禁じられてしまっています。
 子どもができるようになる前にあった願いの残り物については,全ての子育ては,ある程度まで,創造するわけではない,2分の1遊びを許してくれますが,この2分の1遊びは背いた迷いと呼ばれます。ただし,2分の1遊びが,創造主である聖書の神様の支配(訳注:聖書の神様のいのちが一巡する結界)をハイジャックし,追い出してしまいがちです。子どもを産めるようになる前のスピリチュアルなエネルギーであるリビドーの大部分は,しかしながら,「気高くされ」ます。すなわち,半人前の目的から一人前の目的に回心します。身体の中に隠されている「お母さんの本音」に敏感な子どものアンテナの割り当ては,人が教えや試練の “間” の下に跪きたいと願う願いを強めてくれます。あるいは,子どもは「英知の乳」を吸収するのに熱心ですし,その「英知の乳」にあっては,もっと本音に敏感な大人の器から,「なるほど本物だ」と,人智を超えているのに,手に取って分かるスピリットを頂きたいと願ったんです。あるいは,また,子どもは,自分の腹に詰め込みすぎる代わりに,心から優しい聖書の神様の器(訳注:空)の中で,心から優しい出会いを1つにしてシャローム平和にしてくださいと祈っているんです。子どもができるようになる前の身体の時期は,発達し,気高くなり,あるいは,2分の1遊びを入ってもいいと認められるんではなくて,押さえつけられている心の向きの中に,フロイトさんは,生きる元気が萎む一番重たい源を見て取りました。
 もちろん,一番上手に子どもを気高くすることが,子育ての心の向きの割り当てですし,子育ての1つなんですが,1人から始まるものと思われません。1人が夢中になることが,血を流すほどの努力,賛成する人がほとんどいないこと,本気の3つを伴う場合だけ,大人の中にも,子どもが夢中になる時にある「断ち物」の元が「なるほど本当にあるなぁ」と分かります。この点で,子どもを気高くすることは,離れ離れに成るギリギリの崖っぷちにあるものです。ですからね,子どもを気高くすることは,初めは恐らく物足りない感じです。ここでこそ,フロイトさんは,ヒーラーとして,ヴィクトリア朝の批判者になりました。フロイトさんが結論として言ったのは,共に暮らす者達は,あまりにも盲目的に独裁的に,自分の子ども等に対して,気高くなるという,とてもできない偉業を強要する,という事でした。大事な半人前エネルギーは,聖書の神様からのギフトの一人前の生かされている実感に気高く成ることが出来ますし,気高くなる予定だ,という事は真実です。共に暮らす親達がサンガ(エクレシア,互いに大切にし合う仲間)になるかは,半人前エネルギーが聖書の神様からのギフトの一人前の生かされている実感に気高く成ること次第です。ですからね,共に暮らす親たちの物は元に暮らす親たちに返しなさい、でしょう。しかし,最初にすべきは,人を大切にするあの聖書の神様の晴れ晴れとしたいのちは子どもに返しなさい でしょう。人を大切にするあの聖書の神様のいのちは,聖書の神様のいのちが一巡する関わりを始めて子どもが気高くなることが出来ますから。
 心の病から,日ごろからあるムラ気まで右往左往する異常に苦しんでいる者だけが,自分が聖書の神様から実は大事にされていること,半分に分けられた働きも「善し」とされて感動して,内的に促されることに気付いたおかげで,2つを1つにする聖書の神様の煌めく光が,闇に退歩することの中で一巡することの価値が体得底で分かります。聖書の神様から大事にされること,半分に分けられた働きも「善し」とされて感動して,内的に促されることに気付くことは,人間のやることを「最低」にするのに役立つだけでなく,「最高」にするのにも貢献します。多くの場合,人間のやることを,同時に「最低」でしかも「最高」にするのに役立ちますよ。
 しかし,理論上の課題,用語上の課題も解決されるべく将来にわたって残っています。スピリットを学ぶ中で真実に助けになるお母さんに集中する決心をする中で,フロイトさんが見つけたのが,人類が半分にバラバラにされていることを再発見することこそ,果たすべき一番大事なお務めだ,という事でしたね。人類が半分にバラバラにされていることを再発見することこそ,果たすべき一番大事なお務めだとする所では,絆が大きく侵されているところに一体感を回復しなくてはなりませんでしょ。しかも,崖っぷちを語り合うことで。崖っぷちを語り合いますと,不思議なことですが,古代の英知といまの思いが混じります。「ヒステリア」という言葉を取り上げてみましょうね。ギリシャ人は,その昔,女性のヒステリーは,子宮が泣きながら漂っていることから生じる,と考えていました。つまり,子宮が身体を求めてさ迷っているんです,あっちで苦しい思いをしたり,こっちでつっかえたりしながら。もちろん,フロイトさんにとっては,子宮って,創造する元型ですから,生殖器官ではありません。創造する元型である子宮は,その創造の目的から逸れてしまったら,創造するために使われる心からの優しさを態度で示すリビドーは力を発揮できなくなります(寒々とします)。心からの優しさを態度で示すリビドーが聖書の神様の創造から横道に逸れて,的外れに穿き違えていますと,それは,幼稚なところと幼稚な振舞いにいつまでも従うことになります。ですから,息苦しさが示しているかもしれないのは,身を守るために何かを天に吐き出すことがありますよ,創造を押さえつけて心貧しくならないでね,という事でしょう。心からの優しさを態度で示すリビドーが創造から尻込みする気持ちを話すことは他のところで自ずから明らかですが,フロイトさんは当時熱を帯びた言葉,つまり,エネルギーに満ちて,そのエネルギーを伝染させる言葉を用いました。その結果,熱を帯びた言葉って,たいていが下に立つ生き方は聖書の神様のいのちを生かす唯一の生き方になる予定になっているんですよ。下に立つ生き方は,「共に育て合いましょうよ」と呼びかけ合うことになりますから,共に育て合うことが自由で不動であることを,礼拝も試練も改めて確かめようともしませんよ。
 偉大な改革者は,その時代にピッタリの言葉と譬えで語るのが世の常ですが,フロイトさんも自身が「夢物語」と呼んだものを真正面から受け止め相手にする勇気を持っていなければなりませんでした。真理の聖書の神様に見守られていますと,その人が最初に唱えたお祈りが晴れ晴れと実現します。
 フロイトさんは,心からの優しさを態度で示すリビドーによって,ジョージ・スチュアートさんが嵐を小説にしたことと似ている様に,私は感じています。彼は,小説『嵐』の中で、大水を物語の柱にしました。スチュワートさんは,聖書の神様のいのちが一巡することと自然の出来事の一回性を同列に描きました。それはまるで,この世やこの世で育った人が存在するのは,あの嵐が大歓びするためだ,と言いたげです。あの嵐が大歓びしますと、内外で起こる手に余る出来事という嵐の中に,キラキラと光が煌めくのを善く見る視座を豊かにしてくれます。魂を自由にした人たち(訳注:フロイトさんたち)の初期も,人間の内的促しは,心からの優しさを態度で示すリビドーが最深欲求にある心根だ,とキッパリと言ったでしょ。共依存になっている小我は,防風林か,脆い地層にすぎず,最深欲求にある心根である心からの優しさを態度で示すリビドーと,自分勝手で敵意に満ちた世間の常識という「外面だけが良くなる場」である曖昧な周りとを,上手に仕切れません。
 しかし,医者のフロイトさんは,作家のジョージ・スチュアートさんよりも上を行っています。フロイトさんは,初めて一体にもなり,ハッキリと示しもした,様々な心の嵐を善く善く調べて,病んだところから打ち勝つことが出来ましたから。心からの優しさを態度で示すリビドーの聖書の神様のいのちをハッキリさせることによって,フロイトさんは,五感を見当違いに粗末にして生きている意味を見失ったことから来る,個人や組織が抱えることになる心の病を畏敬の念をもってハッキリと私どもが見るように促す内的促しと心の病を癒す私どものあの結界とを育ててくれました。フロイトさんにとってはハッキリしたことでしたし,私どもにとってだんだんはっきりとしてくることは,どんな人が自分を空っぽにする(エゴをなくす)結界に関わって,様々な患者さん(あるいは,子ども達や心を病んだ人たち)と共に,魂を自由にする生き方が出来ようにできるのか,という事です。つまり,それは,人間様のいのちの全体性の中に,心からの優しさを態度で示すリビドーを見い出す視座を探さなくてはならない,という事でしょう。ひとりびとりの心からの優しさを態度で示すリビドーを代わりばんこに示すことをハッキリと描いて,ひとりびとりが聖書の神様のいのちが一巡する結界に成ることを今後も研究し続けるつもりですが,お喋りの中だけの聖書の神様が,生きている人間を操り人形の役回りに貶める危険には敏感でなくてはなりません。お喋りの中だけの聖書の神様は,心身を癒すことも,自分の頭でよく考えてみることもプレゼントしてくれません。
 フロイトさんは,人の心の足跡を辿る人ですから,聖書の神様のいのちが一巡する結界の中では,医者のフロイトさんの上を生きていましたね。フロイトさんは,辛さをハッキリと教えてくれたり,直したりする以上のことをしたんです。創造が発達の中でどのよう生じるのかを明らかにする訓練をすることで,フロイトさんが教えてくれたことは,半人前が,様々な舞台の中で,フライトさんがあらゆる創造的発達と切っても切れない程に結びつけた1つの発達を進める,ということです。
 と申しますのも,フライトさんが半人前の源を最初に本気になった時に気づいたことが,半人前を学ぶのは,科学であるのみならず,万人に共通することですが,半人前学は,新しいあり方であり,2人で一人前になる時期に,新たに始まる発達変化が急激に始まる,一人前に急になることを正しいとしているからです。ですから,半人前学が立つのは,発生学が中世にだっていた立ち位置ですし,ホムンクルスが,小さくても予め完成していた人間で,男の精子が女の子宮に入るのを待っていて,そこから展開して,いのちに飛び込むと考えられていた考えが,創造発達的に受け入れられていました。発生学は,聖書の神様が予め天上で創造発達する予定説上の発達の下に立っていて,よちよち歩きの(訳注:土の)器から,一歩一歩発達します。フライトさんに従う弟子たちが,半人前の魂が赤ちゃんの時期に創造発達するのに与る掟は,子宮の中で半人前の精子と半人前の卵子が合体して一人前の赤ちゃんになることと似ていることに気づくと,1番腑に落ちます

 2人が繰り返し一心同体になる中で一人前の大人に発達する中で,それぞれ自分の音色を奏でるものには,すべて時があります。この時を作り出すスピリットが,立ち上がる最初の場所とおんなじくらい大切です。たとえば,目が約束の時間に立ち上がり一人前の働きをしないなら,「その目は自分の音色が出せませんから晴れ晴れとしないでしょ。...

 
 
 
 聖書に「神様のなし給うことは 時にかなって美しい」という言葉があります。この聖句は,単に一般論を言っているのではなくて,日々の具体的な暮らしの中にあるリアルな経験を言っている訳です。時にかなった経験を一度でも体験すればすぐに「なるほど、本当だね(ア-メン)」と言いたくなるとこです晴れ晴れとした感触が強烈で,善い予感が漲っています。

 そのア-メンと言いたくなる時を作るのは私ではありません。時は向こうからやってくるもるのですね。それはキリストのスピリットと同じで,如来,やってきます。時はスピリットが創るもるのですから,ジタバタしても始まりません。

 スピリットは結界にやってきます。同時に,スピリットがやってくるから結界ができます。

 

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#毎日礼拝をしない心構え?   #時の必然

2020-08-23 03:50:22 | エリクソンの発達臨床心理
 
#触れ合い #礼拝 から #創造される #シャローム平和 と #統合

「発達トラウマ障害」Enpedia をご参照ください。  また不思議な声が,聴こえましたので,久しぶりに,ジョアンの文章を。The life cycle compl......
 

「発達トラウマ障害 Enpedia」    

をご参照ください。  

 

 Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 ,第2章第3節「毎日礼拝」の件が終了。

 第4節「毎日礼拝の復権」の途中,P.116の第3パラグラフから。

 今朝は,p.117の第3パラグラフから。

 

 


 毎日礼拝があまり役に立たないなどという様々な疑問全てに関して,2つだけ言わせてくださいね。私が申し上げたいことは,第1に、かつてないほど全人類を巻き込み,とても危ういバクチにもなるかもしれい見通しも定かではない中で,今日の工業化した文明が試みている様々な生き方を探し出すこと,すなわち,人間の赤ちゃんの時期を,改めて毎日礼拝にすることが大事だ,ということです。第2に,大人同士の関係の在り方も,さまざまな学問を巻き込んだ研究が必要になることでしょう,という事も申し上げたいのです。しかし,(訳注:もう1つ)申し上げたいのは,1960年代の若者達のバラバラな反乱の中には,聖書の神様の,イキイキ晴れ晴れとしたいのちが一巡する,毎日礼拝を復権させたいという,世にも重大な問いかけが,結界の中で,問われていた,という事です。この若者たちの纏まらない反乱は,全てのカウンターカルチャー同様に,「人を想う気持ち」が失われてしまったことと,指導者たちが「人を想う気持ち」が失われてしまったことなど,官房長官の菅さんみたいに「当たりません」と言って,若者達と同じ立ち位置に立ってくれないこととに対する,深い悲しみを示しています。そういう指導者たちは,若者が「血を流す犠牲」を払って「聖書の神様の創造のお役に立つ」ことにいつも頼るくせに,聖書の神様の創造を真正面にする志がありません。序論の引用でお示ししましたように,大量殺戮兵器という科学技術が生み出した手段に頼れば頼るほど,植民地戦争は実感なきまがい物の現実になります。この実感なきまがい物の現実は,絶望的にますます実感をなくして生きます。実感なきまがい物の現実は,不意に,「我慢ならない『生き方』」だ,さらには,そんなもののために「死んでたまるか」(「人殺しなどできない」)と感じる若者が出てきますね。

 しかし,毎日礼拝をする原点に戻りたいという気持ちがどうして生じるのか? という疑問に関して,ここで1つだけ申し上げられることは,魂を自由にする者の務めは,文字通り,過去が,本当の自分が生まれて来たり,本当の自分が育ったりして,人生の中で,あるいは,歴史の中で,現在に組み込まれる道を辿るのを助けることだ,という事です。なぜなら,こういった心眼がなくてはならないのは,将来創造する務めを(訳注:本気で陽気に根気よく)果たす為に,現在を自由に生きるのに役立つからです。 現在を自由にして将来創造する務めを果たす点で,動物行動学者と魂を自由にするセラピストとが,共通する本気の務めがいくつかあります。動物行動学者は,身体の中で様々に促す本能的パターンと呼ばれたものの力を明らかにしますし,魂を自由にするセラピストは,ひとりびとりの心や仲間意識がもつ,いわゆる内的に促す力(訳注:後者は集団圧力)と秩序の力とを明らかにしますでしょ(訳注:内側に働く力を両者とも明らかにしますでしょ)。聖書の神様のいちが一巡して創造発達する予定説は,歴史や科学技術の見通しがバタバタと駆け足で変化していくのに反して,足取りがとっても遅いことを,考え合わせなくてはなりませんから,魂を自由にするセラピストが肝に銘じる予定説があるとすれば,それは,人ね間が最初に抱く心的態度であるアタッチメントスタイルは,なかなか変わり難いということです。足取りが遅い心的態度の中でも,聖書の神様の命が一巡する見通しの中で,毎日2人の間で一巡する聖書の神様のいのちと結びつけて自分を育てたいと願うイメージなかなか育ちません

 現代では,古臭るい毎日礼拝は簡単に捨て去られやすい場合がよくありますね。それは現代が科学技術の時代精神と一体になった,新たな心構えが,ひとりびとりに生じた中で起きたことです。

 

 

 科学技術全盛の現代の時代精神とはどういうことでしょうか? それは、効率と目先の利益を求める精神ではないですか? 現代の時代精神は人間に対しても,効率と目先の利益を求めがちでしょ。それはチャップリンがモダンタイムスで明らかにしたように,2つに分けることができない人間を,沢山な,しかも,いつでも替えが利く,機械部品みたいになってしまいます

 自分が部品にされた現代人は,人や自然や物も,自己中で恣意的な目的のための機械部品みたいにしがちです。全人格が問われる毎日礼拝は,簡単に捨てられることになるのも,時の必然でしょ。

 

 

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