#人間 = #光る声 に #聴き従う存在 #感激の恵みの在り処
「発達トラウマ障害」Enpedia をご参照ください。 また不思議な声が,聴こえましたので,久しぶりに,ジョアンの文章を。The life cycle compl......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 ,第2章第3節「毎日礼拝」の件が終了。
第4節「毎日礼拝の復権」の途中,P.116の第3パラグラフから。
今朝は,p.117の第3パラグラフから。
毎日礼拝があまり役に立たないなどという様々な疑問全てに関して,2つだけ言わせてくださいね。私が申し上げたいことは,第1に、かつてないほど全人類を巻き込み,とても危ういバクチにもなるかもしれい見通しも定かではない中で,今日の工業化した文明が試みている様々な生き方を探し出すこと,すなわち,人間の赤ちゃんの時期を,改めて毎日礼拝にすることが大事だ,ということです。第2に,大人同士の関係の在り方も,さまざまな学問を巻き込んだ研究が必要になることでしょう,という事も申し上げたいのです。しかし,(訳注:もう1つ)申し上げたいのは,1960年代の若者達のバラバラな反乱の中には,聖書の神様の,イキイキ晴れ晴れとしたいのちが一巡する,毎日礼拝を復権させたいという,世にも重大な問いかけが,結界の中で,問われていた,という事です。この若者たちの纏まらない反乱は,全てのカウンターカルチャー同様に,「人を想う気持ち」が失われてしまったことと,指導者たちが「人を想う気持ち」が失われてしまったことなど,官房長官の菅さんみたいに「当たりません」と言って,若者達と同じ立ち位置に立ってくれないこととに対する,深い悲しみを示しています。そういう指導者たちは,若者が「血を流す犠牲」を払って「聖書の神様の創造のお役に立つ」ことにいつも頼るくせに,聖書の神様の創造を真正面にする志がありません。序論の引用でお示ししましたように,大量殺戮兵器という科学技術が生み出した手段に頼れば頼るほど,植民地戦争は実感なきまがい物の現実になります。この実感なきまがい物の現実は,絶望的にますます実感をなくして生きます。実感なきまがい物の現実は,不意に,「我慢ならない『生き方』」だ,さらには,そんなもののために「死んでたまるか」(「人殺しなどできない」)と感じる若者が出てきますね。
しかし,毎日礼拝をする原点に戻りたいという気持ちがどうして生じるのか? という疑問に関して,ここで1つだけ申し上げられることは,魂を自由にする者の務めは,文字通り,過去が,本当の自分が生まれて来たり,本当の自分が育ったりして,人生の中で,あるいは,歴史の中で,現在に組み込まれる道を辿るのを助けることだ,という事です。なぜなら,こういった心眼がなくてはならないのは,将来創造する務めを(訳注:本気で陽気に根気よく)果たす為に,現在を自由に生きるのに役立つからです。 現在を自由にして将来創造する務めを果たす点で,動物行動学者と魂を自由にするセラピストとが,共通する本気の務めがいくつかあります。動物行動学者は,身体の中で様々に促す本能的パターンと呼ばれたものの力を明らかにしますし,魂を自由にするセラピストは,ひとりびとりの心や仲間意識がもつ,いわゆる内的に促す力(訳注:後者は集団圧力)と秩序の力とを明らかにしますでしょ(訳注:内側に働く力を両者とも明らかにしますでしょ)。聖書の神様のいちが一巡して創造発達する予定説は,歴史や科学技術の見通しがバタバタと駆け足で変化していくのに反して,足取りがとっても遅いことを,考え合わせなくてはなりませんから,魂を自由にするセラピストが肝に銘じる予定説があるとすれば,それは,人ね間が最初に抱く心的態度であるアタッチメントスタイルは,なかなか変わり難い,ということです。足取りが遅い心的態度の中でも,聖書の神様の命が一巡する見通しの中で,毎日2人の間で一巡する聖書の神様のいのちと結びつけて自分を育てたいと願うイメージがなかなか育ちません。
現代では,古臭るい毎日礼拝は簡単に捨て去られやすい場合がよくありますね。それは現代が科学技術の時代精神と一体になった,新たな心構えが,ひとりびとりに生じた中で起きたことです。しかも,(訳注:一対一の心響かせ合う対話ではなく)心に響かない話し合いを求めてのことですからね…
科学技術全盛の現代の時代精神は,人をモノにしてしまいがちで、対話も一方通行になりがちです。
そうした場合,人は人生のむなしさ,石川啄木の言葉だそうですが,閉塞感に苦しむことになります。大正から零羽に至るまで,時は移ったように見えて、時代精神は、人生の虚しさと閉塞感を深めている,と言っていいでしょう。