エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#英知の源

2020-08-05 06:27:14 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 
#賢い大人  #身も心も  #歓びの根っこをプレゼント毎日礼拝

 #赤ちゃんとお母さんのぶつかりあい #心を響き合わせた関係ができない苦しみ #一つも欠けた所がない平和:#シャローム      発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。a......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」    

をご参照ください。  

 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。 

 p.124,ブラクラ後の,発達トラウマ障害治療の核心部分の,2度目の翻訳も修了。

 今朝も,ヴァン・デ・コーク教授のお仲間 Licia Skyさんの言葉から。

 p.219の第2パラグラフの6行目から。

 

 

ビクビクしている人も

     自分の身体に触れられますと

     ホッとする気持ち

     を実感できます

 

 

 確かで温もりのあるタッチがこそ,真の英知の源です

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#聖書の言葉 #単独者の恵み #お祈りの星

2020-08-05 06:12:16 | 聖書の言葉から
 
#聖書の言葉 #単独者の恵み #聖書の神様の作品

 #聖書の言葉 #1人豊か #生きている   マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。   人間は 五感を働かせていることが, 生きている ということに なるのでしょ......
 

「発達トラウマ障害 Enpedia
をご参照ください。



生きているのに
死んでいるあなたへ



今朝も,ジェームズ・フーストン James M. Houston さんの言葉からも

 

 

お祈り

 

 

 

が大事にするのは

 

人様の魂に印をつけること

 

 

聖書の神様

 

を歓ばせる

 

より大事

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#聖書の言葉 #単独者の恵み #キリスト

2020-08-05 05:53:18 | 聖書の言葉から
 
#体感の実感 は #2人の実感 から

 #アレキサイミア #突っ込んでくるトラックも避ける? #発達トラウマ障害の人たちの拷問 現世考 : #日野原重明さんの教え  #ゆるす恕      発達トラウマ障......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia
をご参照ください。



生きているのに
死んでいるあなたへ



今朝も,ヘンリー・ナウエンさんの言葉から

 

 

 

眼には見えないキリスト

 

 

 

苦しめられている立場の弱い人

 

傷を負わされている癒し手

 

(イザヤ書53章)

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#嵐 と #光よ

2020-08-05 04:39:54 | エリクソンの発達臨床心理
 
 
#賢い大人  #身も心も  #歓びの根っこをプレゼント毎日礼拝

 #赤ちゃんとお母さんのぶつかりあい #心を響き合わせた関係ができない苦しみ #一つも欠けた所がない平和:#シャローム      発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。a......
 

 

「発達トラウマ障害  Enpedia」
 
  をご参照ください。

 

 Childhood and Society から。p.61の第3パラグラフから。

 今朝は,p.64,第3パラグラフ,5行目から。

 

 

 たとえば,依存症の人たちは,赤ちゃんだったころの自分がしたみたいに,身体も満たされ,気持ちも元気になる様々な物を、口と肌で,取り入れて,その物と一体になることに依存しています。ところが,依存症の人たちは、喉から手が出る程,赤ちゃん返りを願っている、なんてことにはひとつも気付きません。依存症の人たちが,駄々をこね、鼻持ちならないことを自慢し、文句を付けるほど、それとは裏腹に,赤ん坊じみた魂が、ハッキリと表に出るだけなんですけどね。

 逆に,双極性障害(躁鬱病)の患者さん達は,何の望みもなく,空っぽで,物で満たすこともありません。つまり,ぶち壊しにしなければ,と思うような,悪い者や敵で満たすこともありません。あるいは,不意に良い気分が充満しますから,力が湧いてきて,元気モリモリになる気分が際限なく広がって,「そこまでにしておいて」という人の意見を受け付けなくなります。しかし,躁鬱病の人は,下に立つキリストも知らなけれは,良くも悪くも内的促しがどこから生まれてくるのかも知りません。

 ヒステリーの人達は,もしも,女性であれば,まるで,奇妙に物に付け込まれ,攻撃され,拒まれているようなのに,しかも,物に取りつかれているようでもあります。子どもを孕んだこともないのに,分析してみると,その女性が当て買われた最初の役目を示す出来事を孕んでいるんです。ヒステリーの人はその最初の女(男)性の役割に取りつかれているんですが,ただし(なぜなら),その最初の性役割は,はるか昔の子どもの頃にある,受け止めきれない体験になっています(から)

 こういったとても辛い思いをしている人達全ては,それが依存症でも,うつ病でも,気持ちを言葉にできない人でも,幼い頃のどこかの時を生かすことができませんから,幼稚な真似から自分を守ることになりますが,その守り方は頑固で,骨折りで,結局はうまく生きません。

 たほう,繰り返し押さえつけて,お務めをさぼる道を外れて病んだ,それぞれの人には,真実な関係を外れるのに相応しい共通の悪い相手がいます。元々の赤ちゃんの時のパターンからはかけ離れているけれども、口で感じた刺激か,口に貰った刺激から感じ取った性的に完璧に満足する喜びを得ようとする大人がいますでしょ。自分がセックスする時に入れる穴の中で,お尻好きの人も居ますでしょ。それに,性器を覗いたり,自分の性器を見せびらかしたりしたい罰当たりも居ますしね。また,衝動的に,しかも,手当たり次第に,他の人間を,単にイジメる「嬲り者」にするためだけの存在にするために,性器を使いたい輩も居ます。

 心病む人が無意識に望む性行為と 道を外れた者たちがあから様にやる行為の間に,相補的な関係があることを少なくとも理解していたので,フロイトさんは,スピリチュアルなエネルギーの宮を立ち上げることに前進したのです。ですからね,「スピリチュアルなエネルギーであるリビドー」は,半人前の2分の1エネルギーでして,この半人前の2分の1エネルギーは,子どもの時期に,性器以外の身体の周りにあって,食べ物を口に入れたり,お腹の調子を整えたり,手足を動かしたりすると,聖書の神様のいのちの分け前を、その時特有の気高い歓びで,気高い一人前のシャローム平和の歓びにしてくれます。半人前の2分の1エネルギーのリビドーを,子どもを作ることができない時期に,用いた後になって初めて,子どもの半人前の2分の1性は,ささやかないのちが息づく子どもの創造性へと,上手に発展していきます。ささやかないのちが息づく子どもの創造性が,すぐに大なり小なり,《目には見えない》ようになりますし,形も変わりますし,捻じ曲がってしまいます。と申しますのも,子どもの創造力は,まだ半人前だからです。それで,半人前の2分の1の願いの最初に相手をしたモノは,近親相姦禁止という世界の定めのゆえに,永遠に禁じられてしまっています。

 子どもができるようになる前にあった願いの残り物については,全ての子育ては,ある程度まで,創造するわけではない,2分の1遊びを許してくれますが,この2分の1遊び背いた迷いと呼ばれます。ただし,2分の1遊びが,創造主である聖書の神様の支配(訳注:聖書の神様のいのちが一巡する結界)をハイジャックし,追い出してしまいがちです。子どもを産めるようになる前のスピリチュアルなエネルギーであるリビドーの大部分は,しかしながら,「気高くされ」ます。すなわち,半人前の目的から一人前の目的に回心します。身体の中に隠されている「お母さんの本音」に敏感な子どものアンテナの割り当ては,人が教えや試練の “間” の下に跪きたいと願う願いを強めてくれます。あるいは,子どもは「英知の乳」を吸収するのに熱心ですし,その「英知の乳」にあっては,もっと本音に敏感な大人の器から,「なるほど本物だ」と,人智を超えているのに,手に取って分かるスピリットを頂きたいと願ったんです。あるいは,また,子どもは,自分の腹に詰め込みすぎる代わりに,心から優しい聖書の神様の器(訳注:)の中で,心から優しい出会いを1つにしてシャローム平和にしてくださいと祈っているんです。子どもができるようになる前の身体の時期は,発達し,気高くなり,あるいは,2分の1遊びを入ってもいいと認められるんではなくて,押さえつけられている心の向きの中に,フロイトさんは,生きる元気が萎む一番重たい源を見て取りました。

 もちろん,一番上手に子どもを気高くすることが,子育ての心の向きの割り当てですし,子育ての1つなんですが,1人から始まるものと思われません。1人が夢中になることが,血を流すほどの努力,賛成する人がほとんどいないこと,本気の3つを伴う場合だけ,大人の中にも,子どもが夢中になる時にある「断ち物」の元が「なるほど本当にあるなぁ」と分かります。この点で,子どもを気高くすることは,離れ離れに成るギリギリの崖っぷちにあるものです。ですからね,子どもを気高くすることは,初めは恐らく物足りない感じです。ここでこそ,フロイトさんは,ヒーラーとして,ヴィクトリア朝の批判者になりました。フロイトさんが結論として言ったのは,共に暮らす者達は,あまりにも盲目的に独裁的に,自分の子ども等に対して,気高くなるという,とてもできない偉業を強要する,という事でした。大事な半人前エネルギーは,聖書の神様からのギフトの一人前の生かされている実感に気高く成ることが出来ますし,気高くなる予定だ,という事は真実です。共に暮らす親達サンガ(エクレシア,互いに大切にし合う仲間)になるかは,半人前エネルギーが聖書の神様からのギフトの一人前の生かされている実感に気高く成ること次第です。ですからね,共に暮らす親たちの物は元に暮らす親たちに返しなさい、でしょう。しかし,最初にすべきは,人を大切にするあの聖書の神様の晴れ晴れとしたいのちは子どもに返しなさい でしょう。人を大切にするあの聖書の神様のいのちは,聖書の神様のいのちが一巡する関わりを始めて子どもを気高くなることが出来ますから。

 心の病から,日ごろからあるムラ気まで右往左往する異常に苦しんでいる者だけが,自分が聖書の神様から実は大事にされていること,半分に分けられた働きも「善し」とされて感動して,内的に促されることに気付いたおかげで,2つを1つにする聖書の神様の煌めく光が,闇に退歩することの中で一巡することの価値体得底で分かります。聖書の神様から大事にされること,半分に分けられた働きも「善し」とされて感動して,内的に促されることに気付くことは,人間のやることを「最低」にするのに役立つだけでなく,「最高」にするのにも貢献します。多くの場合,人間のやることを,同時に「最低」でしかも「最高」にするのに役立ちますよ。

 しかし,理論上の課題,用語上の課題も解決されるべく将来にわたって残っています。スピリットを学ぶ中で真実に助けになるお母さんに集中する決心をする中で,フロイトさんが見つけたのが,人類が半分にバラバラにされていることを再発見することこそ,果たすべき一番大事なお務めだ,という事でしたね。人類が半分にバラバラにされていることを再発見することこそ,果たすべき一番大事なお務めだとする所では,絆が大きく侵されているところに一体感の回復しなくてはなりませんでしょ。しかも,崖っぷちを語り合うことで。崖っぷちを語り合いますと,不思議なことですが,古代の英知といまの思いが混じります。「ヒステリア」という言葉を取り上げてみましょうね。ギリシャ人は,その昔,女性のヒステリーは,子宮が泣きながら漂っていることから生じる,と考えていました。つまり,子宮が身体を求めてさ迷っているんです,あっちで苦しい思いをしたり,こっちでつっかえたりしながら。もちろん,フロイトさんにとっては,子宮って,創造する元型ですから,生殖器官ではありません。創造する元型である子宮は,その創造の目的から逸れてしまったら,創造するために使われる心からの優しさを態度で示すリビドーは力を発揮できなくなります(寒々とします)。心からの優しさを態度で示すリビドー聖書の神様の創造から横道に逸れて,的外れに穿き違えていますと,それは,幼稚なところと幼稚な振舞いにいつまでも従うことになります。ですから,息苦しさが示しているかもしれないのは,身を守るために何かを天に吐き出すことがありますよ創造を押さえつけて心貧しくならないでね,という事でしょう。心からの優しさを態度で示すリビドーが創造から尻込みする気持ちを話すことは他のところで自ずから明らかですが,フロイトさんは当時熱を帯びた言葉,つまり,エネルギーに満ちて,そのエネルギーを伝染させる言葉を用いました。その結果,熱を帯びた言葉って,たいていが下に立つ生き方聖書の神様のいのちを生かす唯一の生き方になる予定になっているんですよ。下に立つ生き方は,「共に育て合いましょうよ」と呼びかけ合うことになりますから,共に育て合うことが自由で不動であることを,礼拝も試練も改めて確かめようともしませんよ。

 偉大な改革者は,その時代にピッタリの言葉と譬えで語るのが世の常ですが,フロイトさんも自身が「夢物語」と呼んだものを真正面から受け止め相手にする勇気を持っていなければなりませんでした。真理の聖書の神様に見守られていますと,その人が最初に唱えたお祈りが晴れ晴れと実現します

 フロイトさんは,心からの優しさを態度で示すリビドーによって,ジョージ・スチュアートさんが嵐を小説にしたことと似ている様に,私は感じています。彼は,小説『嵐』の中で、大水を物語の柱にしました。スチュワートさんは,聖書の神様のいのちが一巡することと自然の出来事の一回性を同列に描きました。それはまるで,この世やこの世でそたっ人が存在するのは,あの嵐が大歓びするためだ,と言いたげです。あの嵐が大歓びしますと、内外で起こる手に余る出来事という嵐の中に,キラキラと光が煌めくのを善く見る視座を豊かにしてくれます。

 

 

 嵐が大歓びする? 破壊の限りを尽くすように見えます。球磨川の氾濫があったばかりですしね。でもそういう嵐は,球磨川の激流になるだけではありませんね。私どもの心,私どもの魂も,激流になる場合があることを忘れないことです。球磨川の氾濫以上の破壊を,魂の嵐がもたらすことも,忘れない方が善いでしょう

 ところが,実に不思議なことですが,その魂の嵐の只中にキラキラと光で煌めいているんです。

 

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#キリストの仕業 #内的促し によって  #新しい人 になるよ

2020-08-05 04:38:18 | エリクソンの発達臨床心理
 
 


 
#キリスト こそ #子育ての核心

 #お尻 と #命 #生きている実感を引っ込めない と #心を響き合わせる関係 #デタラメがバレルのは:#気付いた人と犠牲者の連帯     発達トラウマ障害(DTD......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」    

をご参照ください。  

 

 Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.110,第2パラグラフから。

 今朝は,P.113,第3パラグラフ,6行目から。

 



 青年期と理想:

 本当の自分と真実




 青年のために予め用意された,箱だけで商品が入っていない偽の礼拝にする毒気は,「全体主義」です。この「全体主義」は,硬直した様々な考えに囚われて,問答無用に掲げたお題目に,熱に浮かされながら,人をイジメながら,夢中になることです。この全体主義の道連れは,青年に特有な自己愛な(訳注:身勝手な、安倍ちゃんみたいな)人や,様々なイデオロギーにありがちな,聖書の神様でないものを,神として崇める偶像崇拝ですからね。それから,この「全体主義」は自己愛とピッタリですし,この自己愛は,ひとりびとりの若者に特有なものですし,イデオロギーが偶像崇拝になりやすいことに特有なものでもありますし,偶像崇拝に退行しているみたいでしょ。つまり,仲間内の理屈がない訳じゃない,ということです。さらに,生きるはキリストになる舞台は,「仲良くなる」の舞台とも一体です。すなわち,仕事,友達,大切な人と仲間になりたい気持ちの中で,いつも互いに大切にし合うサンガこそが,「仲良くなる」の舞台です。この青年期の生きるはキリストになる舞台は,日常生活を礼拝にするリストの中に,「自分から仲間になる」スピリットが加わります。青年期の舞台の,形ばかりで中身がない偽物の礼拝になる側面は,自己愛村でして,この自己愛村は,仲間以外をイジメる「上から目線の集団」になります。自己愛村 が仲間以外をイジメる「上から目線の集団」になるのが分かるのは,さもしさと偏見の巣窟と,熱狂的な意見や冷酷な厳罰,という,この世でお馴染みのお化けが,恋やお仕事,友情や絵空事で結びついた若者のお喋りや活動に広く行き渡りますから,人間が喉から手が出るほど求めているができます。このは,互いに挨拶し合う様々な場面で強まりますが,その挨拶とは,たとえば,鳥たちが「僕たちが生まれたのは,互いのためだね」という香りを出して踊ったり,「僕たちが生まれたのは,互いに大切にし合う約束をするためだね」とという香りを出しつつ踊ったりすることです。人間の一生の中では,その挨拶は,「僕たち2人が,互いに大切にし合って一心同体に成ること(あるいは,互いを完璧に満たし合うこと)は,僕たち2人が1つのペアに上手になることに相応しいし,互いに大切にし合って一心同体に成ること(あるいは,互いを完璧に満たし合うこと)は,互いに大切にし合う様々なペアから,創造しいのちをもたらすいのちの中で,互いに大切にし合う仲で仲間になることを約束することになりますよ」という気高い芳香を放ちます

 

 

 大人であること と 毎日礼拝で子どもに「あなたは気高い」と伝えること

 

 若者の見習い期間を終える「一廉の人物になる儀式」を経て,「約束をする儀式」が若い大人にプレゼントするのは,新たに一心同体になって仲間に成るスピリットに仲間入りする《免状》です。その《免状》は,聖書の神様のいのちの唯一の通り道を,新しく創造された者に,伝えることです。聖書の神様に頼る毎日礼拝は,聖書の神様のいのちの唯一の通り道を,新しく創造された者に,伝える点で,徹底して従順ですし,ハッキリしています。しかしながら,大人になってからの,腑に落ちる礼拝は,はるかかなたのご先祖様,歴史上の英雄,魂や神々,王様や創始者やお国に頼るものでも,腑に落ちるものであるならどの礼拝でも,子どもの頃や青年の頃の,何気ない毎日礼拝を繰り返し,強化するものに定められています。と言いますのも,大人になっても,子どもの頃の毎日礼拝を繰り返し強化するからこそ,スピリットを育てることが一体になるからです。腑に落ちる礼拝は,また,大人に対しても「あなたは気高い」と伝えます。と申しますのも,本物の大人になることには,毎日礼拝の司祭の車輪を回す点で,繰り返し力づけられたい,ということも入るからなんです。毎日礼拝の司祭の車輪を回す点で,繰り返し力づけられたい,という大人のニーズ(訳注:単数)とは,隣に創造された子どもの眼の中で,(訳注:聖書の神様みたいに)「とても善いよ」といつも頷いて一貫して肯定してくれる人のモデルに,心から歓んで成ることと,「いけないことはいけない」とハッキリと伝える者として,また,真っ当な気高い生き方をするのがミッションですと態度で示す者として,歓んで関わることと,ピッタリと重なります。毎日礼拝でのこの本物の大人の元気を,私は次世代を育てる元気だと申し上げたいんです。本物の大人の元気には,親や教員が子どもを育てることや,物を作り出したり,治療したりする時に弱い立場の相手を育てることも,子どもや弱い立場の相手を「とても善いぞ」と肯定する毎日礼拝になります。大人は,聖書の神様から「とても善いぞ」と言われたキリストを身に着けて,「私は本音が出ることを自覚していたのは間違いありませんでしょ。本音が出ることを(訳注:キリストに救っていただいた者(キリストに聖書の神様の前で「とても善い」と肯定していただかなければならない者)でしかありません,と心底から)自覚しています」という確信に,繰り返し思い至らざるを得ない者でしかないことに決まっています。繰り返し心から安心することって,へこまずに心満たされることが多いのは,父なる聖書の神様,最高の王様を,1人の親みたいな人格(人類を上下2つに分けるウソに騙されて,自分を高等民族と見る高等民族の仲間の親で,しかも,男親です)と見るお陰なんですね。その1人の親みたいな人格である聖書の神様は,聖書の神様が私ども人類を,聖書の神様のイメージの中で創造した時に,本音が出ることを自覚していたのは間違いありませんでしょ。あるいは,繰り返し心から安心することって,へこまずに心満たされることが多いのは,1人の創業者でも,1人の預言者でも,1人の賢人でも,「新しい人が育つイメージに心いっぱい満たされています」とキッパリと口に出して言える人を,1人の親みたいな人格と見るお陰でしょ。今の時代は,女性新しい人が育つイメージを直視するようにする時代です。お父さんの言う事が苦戦しているのが明らかな時代に,お父さんの家がどれ程,毎日礼拝で一心同体に成り「なるほどホントだね」と腑に落ちたルールに頼っていたかが,もう元通りにはできませんが,ハッキリとしましたでしょ。ルールに従う中で挫けたあの「ねばならないで従う責任感」という目で見れば,次世代を育てる毎日礼拝と対になる,箱ばかりで商品が入っていない,特別な生き方になる,ウソを生きる生き方は,自分さえよければ良くて,自分勝手にルールを捻じ曲げる,ウソの生き方になります。そのウソの生き方は,貴方さえ良ければ「虎の威を借りる狐様」と呼びましょう。ところがここで,いままでお話ししてきた毎日礼拝の中の大人のあの(訳注:毎日礼拝の司祭になる)役割生きている実感が漲る礼拝とに,出合いますよ。そのことは,触れておくべき論点ですが,ここでは扱いません。

 しかし,あの「古老の賢慮」に関する言葉,それは,ひとつひとつの毎日礼拝の中で,一巡します。あの「古老の賢慮」に関する言葉が毎日礼拝を創造するのは,「シャローム平和」ですから,その「シャローム平和」がありますと,あの聖書の神様のいのちが確実に一巡するスピリットが来てくださるのを陽気に根気よく待つことが出来ます。ブレークの詩を読んだ時に,ブレークがそれとなく示したことは,古老の賢慮は,一番うまくいけば,陽気で楽しい歓び歓ぶ子どものように生きることで,光ります,ということです。毎日礼拝をする中で互いに大切にし合う無上の歓びを共にすることを自覚する結界を出来事にする,という,古老が手渡す信頼する役回りは,陽気で楽しい歓び歓ぶ子どものように生きる光を生きる光の生き方を子ども等に伝えます。しかし,今様の生き方や,多くの人が長生きするようになっていることを考えますと,ブレークが,古老の賢慮も,おもちゃみたいに,幼稚になる場合がある,とほのめかしていたんじゃないかしら,と考えざるを得ませんね。と申しますのも,自分も年を取ったと思う頃は,「不満」と「不愉快な気分」もありましすが,私が是お勧めしたいのは,ウソのないキリストのバカに成り切るシャローム平和の生き方」です。ウソのないキリストのバカに成り切るシャローム平和の生き方」は,子ども等がすぐに気付きます。ですからね,古老たちと子ども達は,お互いに馬が合うと感じるんでしょうね。ですが,もちろん,老人のなった時も,その時独特の,箱だけで商品が入っていない偽礼拝がありますよ。その偽礼拝は,おバカなのに賢そうに見せようとすることです。それで「知ったかぶり」と呼んではどうでしょう。

 もう合点がいったことは,毎日礼拝が何を全うするか,ということでしょう。つまり,子どもの頃に体験した様々な毎日礼拝の2つを一体にして,繰り返し,新しくすることによって,また,親が毎日礼拝の司祭になることを善しとすることによって毎日礼拝は大人の暮らしを子どもと互いに自由にし合い,キリストを身に纏う暮らしにしますから,大人の暮らしが新しい人を創造することや新しい対等な出会いや聖書の神様の新しいみ心を創造することに役立ちます。聖書の神様のいのちが相手と私の仲で一巡することと心が泰然自若として自由にされることが,キリストがおられるシャローム平和の結界の中で実現していることを,思慮深くよくよく調べてながら生きる生き方を頂いた恵みのゆえに,毎日礼拝は,指導者たちやエリートにだけではなしに,あの結界に与る者達全員に,誰も奪い取ることが出来ない晴れ晴れとありのままの自分を生きる心の習慣を創造してくれるんです。迷う余地がほとんどないのは,毎日聖書の神様のいのちが一巡するいのちを頂く毎日礼拝をしていれば,大人たちは,死は全てのいのちに内在する不可解な背景であることは忘れて,同じ時空と創造の道具を持つ他者と共に,ありのままの自分を創造し合い育て合うことが出来るという見通しをいつでも晴れ晴れとアーメン,本当ですねと実感することを他の何よりも一番大切にします。2人が一心同体に成る聖書の神様の結界の仲では,毎日礼拝を司るキリストのスピリットのお陰で,死は,日々を生かされている 陽気で楽しい歓びが漲る実感という,聖書の神様のスピリットの光が輝き溢れる場となります。

 毎日聖書の神様のいのちが一巡するいのちを頂く毎日礼拝ありのままの自分を創造し合い育て合うで掬い出せる大事な元気・勇気・陽気・根気をいま一覧表にしましたところですから,その大事な元気・勇気・陽気・根気は、一覧表の仲にある,聖書の神様がありのままの本当の自分(大我)をあらかじめ創造したも同然だと申し上げるのは,皆さんが議論したり研究したりできるようにするためです。聖書の神様が下さる元気・勇気・陽気・根気が,仲間たちが一心同体に成るのを助けるのは,まさに,本当の自分(大我)を育てる様々な舞台をシャローム平和を実現する,1つ1つの毎日礼拝が,宗教の様々な礼拝の根源的な元型・スピリットをもたらしてくれる,という事なんですよ。この根源的な元型・スピリットこそが,仲間たちがとても大切にしている理となる物事を進め方(習慣を1つにしてくれます。すなわち,その仲間たちがとても大切にしている理となる物事を進め方(習慣とは,世の中はうまくできていると信頼していることですし,②法と正義を敏感に感じ取る感性ですし,➂聖書の神様のいのちが一巡することを,人をコントロールすることよりも,大切にすること,④聖書の神様のいのちが一巡して創造することが森羅万象の基盤であると体得していること,⑤「お天道さまが見ているよ」と心得ていることです

 シャローム平和を実現する生き方について,記しておかなくてはならないことは,毎日礼拝でも,その他の礼拝でも,あらかじめこうなりますよ,という処方箋は全くない,という事です。毎日礼拝でも,その他の礼拝でも,慣れという意味で,単なる繰り返しや馴染みになるという事をはるかに超えて,真実の毎日礼拝は,どんなに細やかなものでも,本当の自分・大我を創造することに根ざしていれば,必ず驚きと感激に導いて下さる内的促しがあるからです。内的促しがあると,もしかしたら,「これでお終い」という場面なのに,思いがけず「あなたは気高いですからね」と言う,微笑みながらうなずいて居て下さる聖書の神様から認められて「新しい人」に生まれ変わるこの世の唯一の真実があります。

 

 

 その昔,1987年10月,東京女子大学の講堂で,初めて大江健三郎さんのお話し「信仰のない者の祈り」を伺ったことを,昨日のことのように思い出します。その公演はNHKが放送し,また,『人生のハビット習慣』に収められていますから,触れられた方も少なくないと思います。

 生涯忘れてはいけないお話しだ,と感じましたが,この世の唯一の真実を理解するためにはその後30年以上の歳月が必要でしたね。感謝です。

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