#何故でしょうか?
#息の働き またまた #息吹の流れ の #下に立つ のが #当たり前 #不思議な光 と #深い生き方 #自分と仲間が心から自由になこと こそ #最深欲......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
は、内閣府情報調査室が情報操作をしているだろうGoogle検索ではなさらず、
MSN検索、あるいは、 Bing検索にて、ご参照ください。
としましたが、1日で、MSN検索、Bing検索にも、内閣府情報調査室が施したであろう、情報操作が入りました。
それだけ、「発達トラウマ障害 Enpedia」の真実が大事。
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』
p.69 第2パラグラフから。
もちろん,「これこそ,私どもがしなくてはならないこと」と繰り返す中で,私が申し上げたいのは,この本を書きつつ,今ここで私がしなくてはならないことをしようとさえしておらない,ということです。なぜならば,教科書だけで,あるいは,今ある教科書を読んだだけで,「これこそ,私どもがしなくてはならないこと」は到底できない相談だからです。だからこそ,これから私が図表にしたいと願うのは,生涯を通して,陽気で楽しいスピリットを生きる唯一の習慣です。陽気で楽しいスピリットを生きる唯一の習慣は,顧みる人はほとんどありませんが,私は常々,毎日礼拝と名付けています。
私は遊びの場の面から離れる前に,私が申し上げなくてはならないは,勝ち負けのある遊びは,結界がある遊び場があり,仲間が仲良くなる役目があるということです。結界がある遊び場では,結界に置かれた役割を遊ぶ子ども等が,自ら,神託を告げるおもちゃになっているように見えます。
お互いに相手を陽気で楽しくする遊びは,私どもが見てきたように,それぞれが相手が思うままにできるように,親身でぬくもりのある関わり方の中で,育て合う熱心さと力で導かれています。しかし,それぞれの人が自分で思うままにできることが増えるにつれて,一人びとりが,常々,2人の堺で「お互いのぶつかり合い」が,ある人が別の人と対立させ,ある集団が別の集団と対立させることも,経験します。この分断線が,子どものころから劇化された遊びや決まった遊びになってきますし,勝ち負けのある遊びになり,次第に発展したスポーツになります。この分断線があるここでも,また,実験場としての結界でして,参加者の眼にも見物人の眼にも明らかな 不思議なご計画のある場です。いろんな敵たちが約束によって結びつきます。「約束による結びつき」は,やり取りにもなりますし,ぶつかり合うにもなります。それも,ハッキリと分断された線のあっちとこっちでです。
ここで私は,サットン・スミスの非の打ち所がない著作をご紹介するだけにとどめます。サットン・スミスは,子どもが遊ぶ勝ち負けのある遊びの「仲間の作り方」を,特別な「時空の舞台」(訳注:結界)での出会いと観た訳です。たとえば,かくれんぼう,鬼ごっこ,けいどろ(警泥),…こういった勝ち負けのある遊びは,…「権力モデル」も反映しています。この「権力モデル」とは,衝突を和らげた学びの場だ,と申し上げたいんですね。衝突を和らげた学びの場で学びますと,その子どもは,権力に係る際に取るべき知識と経験を身に着けることになります。その知識と経験は,自分の子育ての中で強い影響力があるんです。
(訳注:ジーンズの老舗リーヴァイスの創業者)リーヴァイ・ストラウスの業績に関して,サットン・スミスさんは,勝ち負けのある遊びを「一種の戦争」と呼んで「安心している人同士しかしません 」と言います。この本の成り立ちでは,私が1つだけ描き出そうと試みでいるのは,一人の人「時空の舞台」(訳注:結界)と仲間が思っている世の中に対する見方の間を繋ぐ,いろんな勝ち負けのある遊びに共通する建付けです。
この一番子どもらしい お相子の遊び(相手が私を噛めば,私もその相手を噛むし,相手が私に悪さをしなければ,私もその相手に悪いことをしない)から,子どもの勝ち負けのある遊びに伝統的な遊びやスポーツの国際試合まで,一人びとりの遊び手は,不可思議な「遊びの約束」が司る場を横切る,空想上の,あるいは,実際にある線の,こっちと向こうの,指示された持ち場を割り当てられています。ここでもまた,陽気で楽しいスピリットがスポーツマンシップに育つと,その人の人間らしさの中に,非暴力の生き方を鍛錬することができるようになります。非暴力の生き方は,高等動物の遊びの中に自然にすでに備わっています。本当に,鍛えあげた非暴力の戦いは,「戦争にあらがう対等な力」がありますね。
鍛えあげた非暴力の戦いが一人の人で育つ中で,多くが創造されるものって何でしょうか? グレゴリー・ベイトソンさんは,動物のやり取りについて書いた本に『これこそ遊びだ』というタイトルをつけています。そこで,動物たちが内から促されて,お互いに熱心に信号を出し合うのは,一見喧嘩みたいに見える関わりが,一緒に遊ぼうというお誘いと受け取られる場合です,と彼は述べています。(訳注:動物学者の)アイブル・アイベスファストの報告によれば,動物がする 陽気で楽しい関わりの中には,対等な関係の2人のお手本が,そうでなければ,狩りをしたり,闘ったり,交尾をしたりすることを互いに排除して,多くを創造するために,組み込まれている本能的な行動と分類されてしまうけれども,捕まえて殺し,あるいは,交尾をする だけでは終わらない,特別な2人として、隣同士に並んでいるように思える,ということです。
昨日の翻訳は間違いがありましたので,上記のように訂正します。
対等な関係の2人を創造することこそが,平和の礎なのです。非暴力そのものです。