兄弟のように人を大事にすることが、心の病のように扱いを受けるようでは、世も末でしょう。
p84冒頭から。
フロイトにとって、人を大事にすることはそれ自体、不合理な現象であることがまさに唯一の更なる段階です。不合理に人を大事にすることと、大人の人格を表現したものとして人を大事にすることの違いは、フロイトには、ありません。フロイトが転移で人を大事にすることについて論じた論文で指摘したことは、転移で人を大事にすることは、本質的に「普通の」人を大事にする現象と差はありません。恋することは、いつでも、異常に接近することですし、また、いつでも、現実が見えなくなること、強迫的になること、子どもの頃に大事にしていた相手を投影することが伴います。人を大事にすることが、合理的現象でもあり、おとなになることでもあるものとしては、フロイトははじめから研究対象ではありませんでした。なぜならば、そんなものはもともと存在しなかったからですね。
フロイトにとっては、人を大事にする子自体が不合理的で、合理的で、大人であることを示すような人を大事にすることなんぞは、存在しないはずでした。フロイト自身がそのように人から大事にしてもらった経験がなかったからでしょう。
しかし、エリクソンが示してくれた居るガンディのような無垢で無私な指導者は、ここでフロムが言うような、大人の人格の発露として、人を大事にすることを示してくれるわけですね。
体験の違いが、フロイトと、エリクソン・フロムを分けます。
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