人と人とが一つ(人つ?)になること≪真≫において、人と人として繋がることが、実存的な不安を解消するのに役立つらしい。それじゃあ、その≪真≫において、人と人として繋がるって、どういうこと...
今日夕方のニュースで、詩人の長田弘さんが5月3日に亡くなっていた、と言っていたのに驚きました。10日の朝日新聞「折々のことば」で、鷲田清一さんが長田弘さんのことば「見えてはいるが、誰も見ていないものを見えるようにするのが、詩だ」の言葉を引いていたのを、読んだばかりでした。
私は、『奇跡 ―ミラクル―』しか読んだことはありません。でもね、机上の本棚において、時々読み返す本の一冊でした。このブログでもこの詩集と、「奇跡」の意味を取り上げたこともあります。奇跡 ―ミラクル―
奇跡は、特別なことではなく、何気ない日常生活の中にかくされているもの
これが長田さんが教えてくれていることです。それは、大地震や原発事故などで、失って見て初めて分かる場合が、ホントに多いでしょ。今避難生活をしている22万人以上の人が、長田さんの詩を一番理解できる人なのかもわかりません。でも、それ以外の人は分からなくていいのかなぁ?
「書くとはじぶんに呼びかける声、じぶんを呼びとめる声を書き留めて、言葉にするということである」と長田さんは言います。「わたしはこんなふうに、このような声を聴き、それらの声を書き留めてきたという、返答の書」が『奇跡 ―ミラクル―』だとも。レスポンス。レスポンシビリティ 責務、使命…。
じゃぁ、「じぶんに呼びかける声、じぶんを呼びとめる声」はどこから来るんでしょうか? どうしたらその声に気が付くのでしょうか? それとも、その声にすでに気付いているのでしょうか?
長田さんの詩の一部を最後に。
「ただにここに在るだけで、
じぶんのすべてを、損なうことなく、
誇ることなく、みずから
みごとに生きられるということの、
なんという、花の木たちの奇跡。
きみはまず風景をいつくしめよ。
すべては、それからだ。」
(「奇跡 ―ミラクル―」から、『奇跡 ―ミラクル―』p93)
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