エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#シャローム平和 #いつもどこにでもある

2019-10-07 06:45:45 | エリクソンの発達臨床心理
 
#いま #空っぽの私たち #漲る生かされている歓び
q11 #内的家族システムIFSの役立ち情報   発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com  但し,全て半角にしてから,☆→1430......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  をご参照ください。

    また不思議な声が,聴こえましたので,久しぶりに,ジョアンの文章を。The life cycle completed, extended version から。7ページの第4パラグラフ。

  今朝は,9ページ,第4パラグラフ,3行目から。

 

 

 もうお判りでしょう,英知とは,自ら関わる世界にこそあるのですし,自分から関わる世界は,私どもは五感を総動員して初めて繋がるんです。ですから,五感を実感しているからこそ,見たり聞いたりすることを通して,相手の立場に立つことができますし,五感は香りや味やタッチのおかげで,豊かになり,確かなものになるわけです。と申しますのは,生きとし生けるものは,五感というギフトを,聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)から,ひとりびとり割り当てられているからです。心の習慣が生まれる気高い源は,時が経てば,善くなる,ということでは必ずしもありませんからね。目覚めた魂があれば,毎日繰り返し,聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様(サッカーなどの応援の合言葉,オッレー,オッレーオッレーオッレーの神様))から心の習慣を何度でも頂けますよ。また,眼(訳注:光)と耳(訳注:声,あるいは,音色)の中で毎日礼拝をして,キリストを身にお付けなさいね,と教えてくだるのも,英知の役割ですし,何が子どもの助けになり,何が子どもの心を自由にし,何が子どもを伸ばすのか,について,自分の全精力を集中することも,英知の役割です。英知のこの2つの役割は,私どもひとりびとりの為にも,私どもが生かされている人類皆兄弟の為にも,役立ちますからね。 私ども夫婦がハッキリと指摘してきたことは,信頼を仲間から引き出すリーダーの役割は,仲間と約束して,精一杯約束を守る務めを果たすことにある,ということです。信頼を仲間から引き出すリーダーは,聖書の神様の英知とおんなじくらい、気高く,陽気で楽しい歓びが漲っていますが,聖書の神様の英知ほどには,理解されません。英知の意味には,陽気で楽しい歓びが迸ることが付き物なのに,永遠に覚えていて貰える立場の人のことだと,取りちがえる危険を犯すよりも,オックスフォード大英英辞典にある,英知の意味を隅々まで繰り返し読んだ方がいいでしょう。

  8センチか10センチ程もある, オックスフォード大英英辞典(全20巻)にある「まとめ integrity」という言葉の,長い割り付けは,驚くべき語根,「触れ合う tact」で終わっていますでしょ。「触れ合う tact」という語根から引き出された言葉には,「触れ合い,交際 contact」,「手付かずの,完全な intact」,「触って分かる,感触が良い tactile」,「触って分かる,目に見える tangible」,「画鋲で留める,繋ぐ tack」,「触る ,軽く叩く,暴力を振るう,セックスをする,感動させるtouch」もあります。私ども人間は,身体があるからこそ,五感を働かせるからこそ,温もりに満ちた居場所も,心の底からの微笑みも,共に創造することができるんですし,天国や地球から聞こえてくる,あの気高く,力が漲り,賢い,光る声に,心底から(訳注:最深欲求から)聴き従って生きることもできるんでしたよね。自分から触れ合う関わりをするからこそ,人類皆兄弟と共に,この小ちゃな地球に暮らし,この地球を目覚めさせ,この地球を分かち合うことが出来るんですから。聖書の神様との毎日の「触れ合い contact」がなければ,大人になれません。聖書の神様の心から優しい命が一巡する場では,聖書の神様との触れ合いがなければ,生きていくこともできませんから。

  「まとも integrity」,すなわち,シャローム平和を、触れ合いから派生した様々な言葉の中で,身に付けますとね,体感もなく,身動きも出来ずにいた人が,元気になり,復活します。このまとも,すなわち,シャローム平和を,横断幕に縫い付けるスローガンだと思って,適当な場面で高々と掲げるものだと思ったなら,ひどく的外れですよ。まとも,すなわち,シャローム平和には,人が育つ場,出会い,特に,人類皆兄弟との触れ合いを気高くする働きがありますから。まとも,すなわち,シャローム平和って,「感じが善い tactile」し,「触って分かる,目に見える tangible」生き方であって,探し求めて,掴み取る,気高さが,誰の目にもハッキリと分かる,香り立つ生き方になります。私どもが短く「あの人の仕事って,非の打ち所がないね」と言う場合,最高の褒め言葉になるのは,その仕事が,みんなを一心同体に結び付ける力があるからでしょ。まとも,すなわち,シャローム平和って,勇敢で,当てになりますが,あの世のものじゃありません。まとも,すなわち,シャローム平和とは,私ども人類皆兄弟の心の習慣を1つに結び付けるイメージ,声,それに,賢さを「とっても善い」と聖書の神様がハッキリと認めて下さいます。 「まとも,すなわち,シャローム平和」とは,驚きと感激に満ちた挑戦の言葉なんです。まとも,「すなわち,シャローム平和」が徹頭徹尾,命じているのは,徹頭徹尾,自由で対等であることと,徹頭徹尾,与え続けることです。それは,ちょうど,大切な関わり,些細な関わり,全てに,聖書の神様の恵みに満ち溢れた日にするためになくてはならない,聖書の神様が宿る細部に,不動で自由な気を配って,手を掛けるのと、おんなじです。「まとも,すなわち,シャローム平和」とは,徹頭徹尾,嘘がなく,とっても誠実ですし,とっても率直ですし,それに,とっても「骨が折れます」よ。  「まとも,すなわち,シャローム平和」という言葉がスピリットを磨き上げ,織り上げてくれることを,体得底で身に付けますと,「まとも,すなわち,シャローム平和」って,聖書の神様のいのちが一巡する,私どもの8つの舞台で,何をプレゼントしてくれるんでしょうか? 1つには,「まとも,すなわち,シャローム平和」とは,昔は,天に星の様に輝く気高さだったでしょうけれども,今は,日々の暮らしの中で,2人が不動にされて,心から自由にされる,封印された,唯一無二の神秘ですからね。「まとも,すなわち,シャローム平和」は,生かされている歓びが溢れる大人に育つ世界の中で,2人がピッタリ一心同体になることに広がりますしね。未だかつてなく,みんなが,全てのことが,とっても,ご大切なんです。あらゆる出会いには,(訳注:聖書の神様の,秘められた)特別なご計画がありますし,溢れるほどの恵みがあります。あるいは,思いがけず,お返しのギフト,心の底から湧いてくる微笑みが,ヒョイと現れます。

 「まとも,すなわち,シャローム平和」や「英知,すなわち,賢い見方」という言葉の意味を,年寄じゃなくても,繰り返し振り返って見ますと,ずっと縮こまってていた関わり方と立ち姿に対して、自分でもどうしていいのかわからずに来たし,グズグズしてばかりいた応えから,解き放たれて,ホッとできる居場所を見付けることができます。integrity ,1つも傷がないまとも,すなわち,シャローム平和について,こういった新たな理解が得られますと,年寄りにも,生き生きとした,いのちのギフトをプレゼントしてくれる,という,(訳注:旧約聖書にある「創世記」15章と17章で,聖書の神様がアブラハムとサラに,いのち,イキイキと生きるいのちを約束した)約束を体得底で身に着けますと,心の底に畳み込まれ縮こまっていた,過去の(訳注:赤ちゃんの頃の母親の)眼差し(訳注:自他を信頼できる根源的信頼,ないしは,赤ちゃんの時に自分の身に着けた,お母さんを信頼できる心のアタッチメント・心の付属品)を,広げて,すべての相手にも当てはめることになりますから,晴れ晴れと光る笑顔になれますし,陽気で楽しい歓びを生きられるようになれます。聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)の心からの優しさを日々の暮らしの中で具体的な形で体現する花,聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)を徹頭徹尾信頼する礼拝を日々行う,毎日礼拝をする花,互いに大切にし合う花,という3つの花が咲きますからね。つまりですね,悲しみは,心からの優しさになり,心の豊かさになりますし,仲の良さが人の心も腹の底から温めるものになります。過去を振り返ることが,慈しみ深い聖書の神様の約束を思い出すことになりますから,毎日が,創造の場になりますし,毎日がささやかな歓びに満ち溢れ,陽気で楽しい素敵な歓びに満ち溢れ,笑い声が絶えませんから。

 はじめは,「wisdom 英知,低みからの賢い視座」と「integrity 1つの傷もないまとも,シャローム平和」という言葉は,大人たちには,荷が重すぎる激励に見えたけれども,同じ2つの言葉は,いまや,ハッキリと体得底で身に着ければ,大人たちの本当の自分(=大我=キリスト)を,体得底で,繰り返し確かに生きることになります。私どもが問われているのは,目覚めてイキイキ生きることです。目覚めてイキイキ生きることって,すべての関わり合いの中で,触れ合いと見通しを共有して生きていくためですからね。人はどなたでも,ピッタリとくっつくのに相応しい相手と一心同体になる道を歩むことに決まっています。触れ合いと賢い低い視座という秘密は,どんなものでも,くっ付けて一体にして体現することができれば,自分ができないことも,陽気で楽しく,ユーモアを言って,受け止められることになるはずです。私どもは全て,若者たちには度量が備わっていることを当たり前と考えますし,若者たちの度量を,大いに喜んでいました。触れ合いと賢い低い視座をくっ付けて一体にする秘密を体得底で完全に身に着けた人を,いまここで,触れ合いと聖書の神様を信頼する目で,褒め讃えましょう。自分の耳と自分の目をシッカリと用いて,生きている実感を毎日実感していれば,私ども人間は,それでいいんです。ですからね,日々よく見ることです,日々よく聴くことです。

 聖書の神様が創造し育てる,イキイキ生きるいのちが命じるのは,過去に経験した全ての体験を自らにため込み,全ての体験に頼りなさい,聖書の神様に手を伸ばして,唯一の新しい恵みであるキリストから手助けしてもらって,シャローム平和を見通す目覚めと創造に預かりながら、ということです。頑固,と呼びうる何かがある年寄りって,多いでしょ。エリックはそれを,「不動の中心軸」だとか,「本当の自分と一心同体」と呼んできました。この「不動の中心軸」こそは,過去・現在・未来をシックリと嚙合わせて1つにしたものです。「不動の中心軸」は,(バラバラにされた)自分に勝りますし,世代間の様々な繋がりを光らせます。「不動の中心軸」は,人間の条件を受け容れる点で普遍的です。人間の条件の中には,自分自身や自分の星に関する英知のないものもいます。私ども人間は己の小ささを知るべきです。図らずも,「小さな子どもみたいになる」ことが,賢いんでしょう。小さい子どもは,低い視座で生き,低い視座で人と自分を大切にし,低い視座で学ぶことを歓んでいるからです。いったいどういうことでしょうか? いのちは豊かだ,ということですし,素直な幼子のように,繰り返し信頼し続けなさい,ということです。繰り返し自由でいなさい,陽気で楽しい歓びというキリストを無心に生きなさい、ということです。陽気で楽しい歓びというキリストに一緒に夢中になってくれる仲間がいればいつでも,陽気で楽しい歓びというキリストに夢中にお生きなさいな。陽気で楽しい歓びというキリストを無心に生きて,何年も遠く離れているところに,笑い声を届けましょうよ。

  このようにして,私ども夫婦が申し上げているのは,英知とシャローム平和は,自分の方から関わって生きる生き方が続き育ち広がる道筋だ,ということですし,英知とシャローム平和は,聖書の神様が一巡する様々な舞台に必ずある気高さでもある,ということです。英知とシャローム平和は,必ず現在進行形ですし,願わくば,触れ合いから伝わるもの,堺のないもの,そして,おそらく,いつでもあるもの,であってもらいたいものでしょ。

 

 暗号解読って,奥が深い。

 シャローム平和がいつでもどこにでもあれば,それ以上のことはないでしょう。


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