感性を研ぎ澄ませば、それが叡智!マザー・テレサのアイデンティティの根源 今日のエリクソンは、初期キリスト教徒たちがいかに自分を確かにする道を得たのかについて、記していましたね。......
今宵の聖書の言葉は、καλέω カレオー、「呼ぶ」「招く」という意味です。
『新約聖書』の最初のイエス・キリストの物語「マタイによる福音書」の中にも出てきます。第9章13節に出てきます。いつものように、前田護郎先生の翻訳です。
「13出かけて学びなさい、『わが欲するはあわれみでいけにえではない』とは何か、を。わたしが招きに来たのは義人をではなく罪びとをである」と。」
この「招き」に相当するのが、καλέω カレオーです。
仲間を裏切って、強い者、ローマの税金を集めていたマタイを仲間にするシーンです。ユダヤの人たちは、そんなマタイは、裏切り者、どうしようもない奴、ダメな奴と思っていしまたから、そんな人と付き合うイエスに対しても、「なんであんな裏切り者と付き合ってんのか?」といぶかしく思い、口にします。イエスは「なんだアイツも」と思われたんですね。
その時にイエスが言ったのが、今日引用したところです。「僕は、みんなから仲間はずれにされている人たちと仲間になりますよ」という訳です。
「呼び出し」と言われたら、あんまり、いい感じはしませんね。
でも、その「呼び出し」が「招き」だったら、歓迎された感じが出てきますでしょ。
イエスの「呼び出し」は、一見「とんでもないところにやらされた」と感じる場合が実際にありますね。そんな場合はやっぱり、いい感じがしませんね。でも、それは「招き」だったと気づかされることがあります。「とんでもない」と思っていたことが、「とんでもない」と思っていたところが、実は、自分を生かし、自分を確かにされるために、「なくてはならない」こと、「なくてはならない場所」だった…。
そんな「声の言葉」、「呼び出し」、「招き」に与りたいものですよね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます