母子が互恵的に相手の価値を認め合うことによって,自分らしく振舞うことと陽気で楽しいこととが同じことになる、ことこそが,人間にとって、根源的な経験 the fundamental experience」です!!!
大切なところを,わたくしも誤訳していましたので,謹んで訂正するとともに,上記のように改訳いたします。また,当該部分は,前置きとしてではなくて,地の部分として,改めて訳しなおします。
Toys and Reasons 「おもちゃと覚めた精神」から,p.57,下から2行目途中から。
そこ(この本の第二章)では、私どもは、子どもの時期とそれ以降、ゲームを、友好的なやり取りと敵対的なやり取りとの境目にある、非常に根源的で独創的なやり取りとして、議論することになります。ところが、やり取りを礼拝にするパターンが生き延びる値打ちがあるかどうかが明らかになるのは、陽気で楽しいことが、生涯を通して、ピチピチして、キラキラ生きていること「そのもの」であり、陽気さ楽しいことがないと、特定の生き方、生きているのに死んだようになってしまう、ということになる確率が極めて高いことを,十二分に理解して初めて可能なのです。人生のごくごく早期には、母親が相手をしてくれないと、「自分を切り捨てにする人物」として、経験されてしまいます。それは、赤ちゃんがやり取りを呼び覚まそうとする力を邪魔をされることが、「死んじまえ」と死刑宣言されたも同然なのと、ちょうど同じです。つまり、目覚めたばかりの≪私≫の、まさに根っこと生まれたばかりの「私たち」の感性・実感もまた、死んだも同然です。やり取りがまるでないことの最初の兆候は、(スピッツもまた、ハッキリ示している通り)ガッカリして引っ込み思案になったり,病気に対する抵抗力さえ弱くなったりすることです。さらに申し上げれば、子どもの無意識には、いつも相手をしてくれない母親は、危険で敵意のあるイメージを帯びていますし,相手をしてくれない母親の眼差しは、邪悪な眼差しになるのです。赤ちゃんの時に、自分が発達するゆとりが縮こまると、その代わりに、暴力を使ってでも、相手を自分の思い通りに強制したい、という衝動が大きくなるかもしれません。さらに申し上げれば、暴力を訴えても、相手に強制できなければ、赤ちゃんの時の無力感の本質そのものから、必ずそうなるのですが、相手になる人たちを否定したいという暗ーい衝動が一つ、心の中で膨らんでいきます。
陽気で楽しい毎日の礼拝が,いかに大切かがわかりますでしょ。
ヘイトスピーチ,刑法の厳罰化,北朝鮮や逃げたベトナム人や性奴隷を強調する人たちに対する敵愾心,激怒のニッポン人たちは,みんな,赤ちゃんの頃に母親が忙しくて相手にしてこなかったことに,その原因があることがハッキリわかりますでしょ。
低賃金・長時間労働と,仕事に逃げる母親が,子どもにとっては,死刑宣言だ
ということは,心に刻んでおきたいことですね。
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