人は、最初の発達危機を根源的信頼を豊かにすることで乗り越えることができた時、「全きもの」への道を歩むことができるらしい。
p342の下から16行目途中から。
イエスがこの「人と人を結ぶ」、能動的な活動を特別に大事にするは、この時ばかりではありません。道端に座る盲目の乞食(マルコによる福音書第10章46節~52節)が1人いました。その人は「ダビデの息子」と叫んでいたんですね。イエスははじめは、誰かにその人に呼び掛けてもらうことによって、「元気づけよう」します。こうして、その人が自分の上着を脱ぎ捨てて、飛び上り、「われ」に返ることを促します。その後でイエスが言います。「あなたは信頼しているから、良くなったんですよ」と。それから、すでに触れましたが、4人の友達がいました(マルコによる福音書第2章1節~5節)。その人たちは1人の麻痺のある男をストレッチャーに乗せて、イエスが教えていた家にドアから運び入れようとしました。ところが、それができませんでしたから、「イエスの真上の」屋根に穴をあけて、そのストレッチャーを下しました。この時、マルコによる福音書によれば、イエスはその人たちの「信頼」を眼で見て、その病気の男に言いました。「我が息子よ、あなたの罪は許されました」と。これは、1人のラビが、律法学者の中には議論を巻き起こすことになる、神のごとき絶対の権利を求めるものでした。「なんでこの人は、こんな(権威のある)言い方をするんだろう?」と。
イエスの≪眼≫は、真に不思議です。それはイエスの≪話し言葉≫が不思議なのと似ています。
イエスの≪眼≫が(心の中でイメージとして)見たものは、≪出来事≫になるからです。それは、イエスの≪話し言葉≫が、≪出来事≫になるのと似ています。
イエスの≪眼≫に、このような力があるのはなぜでしょう? イエスの≪言葉≫に、このような力があるのはなぜでしよう?
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