資本主義社会では、商品は直接的に物々交換するのじゃない。あくまでも市場を介して交換されます。
p120の第2パラグラフ。
公平性の倫理は、黄金律の倫理と混同しやすいですよね。「自分が他の人たちからしてもらいたいことを、他の人たちにして差し上げなさい」という格言は、「他の人たちとやり取りする」という意味に解釈できます。でも、実際問題、この格言は、もともと聖書にあるもっと人気のある言葉「自分を大事にするように、あなたの隣の人を大事にしなさい」として出来上がったものです。現実に、ユダヤ・キリスト教の、兄弟愛の規範は、公平性の倫理と全く違うものです。兄弟愛の規範は、自分の身近の人を大事にすることを意味していますし、自分の身近の人の相手とやり取りする責任を感じることだけじゃぁなくて、自分と身近の人と一心同体だと感じることでもあります。だけど、公平性の倫理は、身近の人とやり取りする責任や一心同体だと感じることじゃぁなくて、むしろ、身近な人ともよそよそしく、別個のもとだと感じることですよね。公平性の倫理は、身近の人の権利を尊重しこそすれ、身近な人を大事にすることじゃぁない。黄金律が一番人気のある宗教的格言に今日なっていることは、偶然じゃぁありません。つまり、黄金律は公平性の倫理として解釈できるから、みんなが理解し、しかも、快く実践していることが、宗教的な格言なんですね。でもね、人を大事にすることを実際にやってみることは、公平であることと、人を大事にすることの違いを理解することから始めないとね。
市場経済であれば、取引が公平であれば、それは問題なし、ということになりますよね。どちらも損はしてませんし、そこに「ウソやゴマカシ」があるなどとは感じない。でもね、本当に人を大事にしようとすれば、自分が損をすることは織り込み済み。アンパンマンの教えですよね。それはもう公平じゃぁないでしょ。
ギブ・アンド・テイクしゃぁ、人を大事にすることにならない。
自分が得するようじゃぁ、さらに、もっと、人を大事にすることにならない。
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