「発達トラウマ障害」Enpedia
をご参照ください。
不思議な声が,またまたまた聴こえましたので,identity and the life cycle 『聖書の神様と毎日一心同体になること と 聖書の神様の心から優しいスピリットが,目の前の相手と私の関係の中で一巡すること』 p.107 4行目から。
でも,人が育つ場を民主化したいと願うなら,我々人間が先ずしなければならないのは,真っ当な子どもに確実になる様な民主化ですよね。人が育つ場では,親の身勝手,子どもの弱みに付け込むこと,対等でない関係を禁じる為に,我々人間が先ず気が付かなければならないのは,人生の中で対等でない関係が始まるのは,子どもと大人が対等でないことからだ,ということです。人間は子どもの時期が長いですから,親たちも,教えの場も,(訳注:目の前にもいるし,自分の内奥にもまします)あの子どもの気高さを心から信頼して,(訳注:目の前にもいるし,自分の内奥にもまします)その子どもを鍛えて,私どもが知る限り最高の人間,すなわち,キリストに育て上げる時にもできますね。子どもの時期が長いので,(訳注:目の前にもいるし,自分の内奥にもまします)あの気高い子どもも,心が重たくなるような不安に晒されることにもなれば,いつも心配でたまらない,ということにも,晒されることにもなります。たまらない,この不安や心配は,対等な関係がなく,生きている実感が育まれない中で,強まりますと,何となく不安,ということが,大人になっても,いつまでも続くことになります。何となく不安がいつまでも続きますと,巡り巡って,本人の生き方にも,市民としての暮らしにも,国同士の関わりにさえも,無理と無理強いが必ず生じることに決まっています。子どもの時期が長いので,大人たちは,善く考えずに,気高い子どもに関わってもいいや,と試したくなりますし,しかも,(訳注:目の前にもいるし,自分の内奥にもまします)あの気高い子どもが,大人にピッタリとくっ付いて,仲良くなりたい,という心底からの(あるいは,最深欲求からの)思いに,残忍に漬け込んじゃえー,との思いに駆られる場合があまりにも多いんですね。(訳注:目の前にもいるし,自分の内奥にもまします)あの気高い子どもが,大人にピッタリとくっ付いて,仲良くなりたい,という心底からの(あるいは,最深欲求からの)思いは,他者が割り当てられている,聖書の神様のスピリットが一巡する様に,私どもは,心響かせることが出来る様に,本物の大人達を手助けしてやるんです。私どもは,大人達を無理と無理強いの犠牲にしてしまうのは,私ども人類皆兄弟の中でも,天の圧倒的な恵みの中でも,喜べないことですし,敢えてやろうとしてはならないことです。子どものお務めである,身体を育てることを,私どもは,頓挫させることがない様にしませんとね。
子どもが大人と対等でない。
対等でない関係は,聖書の神様の予定にない,的外れ。大間違いの関係です。
聖書の神様が予定される正しい関係は,対等の関係。でも,それは,対等,という言葉から来る常識とはかけ離れた関係です。
対等な関係は,大人が意識して,下に立つ,という態度で子どもに関わる時にだけ,実現します。
この本の初版が出た1959年当時,腹側迷走神経複合体などのことは分かっていませんでした。しかし,エリクソンは,その飛び抜けて優れていた臨床的直感により,大人の考えなしや残忍さ,その背景にある,大人の未解決な不安が,子どもの身体の発達をめちゃくちゃにすることが,ハッキリと認めていたんですね。
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