ルターのよれば、神様はいつでもどこででも、圧倒的な悦びを下さるみたい。「貰いたい」人はどうぞ。
Young Man Luther 『青年ルター』p201の第3パラグラフから。
1929に出版された優れた研究書の中で、エーリッヒ・フーゲルザンクが示したのは、ルターの「塔の啓示」に前もって寄与した洞察で、もっと後年のものと思われることが多かった洞察は、詩編講義の中に、十全に劇的に登場していた、ということでした。これは、フーゲルザンクが主張している通り、この塔の啓示が実際に「起きた」のは、ルターが詩編講義をしていた間であって、1513年末であったかどうかは、神学的に論争がありますが、わたしは関知いたしません。私の主たる関心は、30才くらいで、すなわち、自分を確かにさせることができない、遅れてやってきた危機を持つ天賦の才の人にとっては大事な年回りで、ルター神学の全体像は、ルター自身が全人格的に価値を認められたことを示す、そのカケラから生まれている、ということです。
素晴らしいですね。ルターが全人格を価値あるものと認められたその体験こそが、「神の啓示」という難しそうな言葉の中身なんですね。それは一昨日、昨日と「天にも昇る悦び」と翻訳や解説をしておいたことと、同じことです。本物の神学は、あるいは、もっと広げて、本物の学問、真理は、こういった「天にも昇る悦び」から生まれてきたのが、歴史的事実です。「天にも昇る悦び」は、カケラでも、ダイアモンドなどには比べ物にならない輝きがあります。「天にも昇る悦び」から生まれた学問・真理だけが、本物の学問・真理であって、それ以外はゴミです。
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