技術偏重のあまり、命を損なうことになっては、本末転倒も甚だしい。
The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p96の、第2パラグラフから。
相対性と言う、この考え方そのものについて言えば、自然科学において革命的な進歩は、すべて、知的な意味ばかりではなくて、倫理的な意味もあるのは、当然だ、ということですね。このように革命的な意味は、知的なものであっても、倫理的なものであっても、世界に対する既存のイメージを打つ壊しにするように見えますし、それに伴って、「≪私≫という感じ」の根源的な次元にある、非常に秩序付けられた確かさまでもが、台無しになるように見えます。1つ例を挙げれば、コペルニクスが、人が(したがって、地球が)宇宙の中心である見方をひっくり返したことは、その見方は、ひとりびとりの≪私≫が自然の中で中心にいることによって支えられた見方であると同時に、ひとりびとりの≪私≫を支えもしたことに間違いありません。
面白いですね。外のある世界をどう見るのか、ということと、心の中のある≪私≫をどう見るのか、ということとは、コインの裏表の関係にあるのですからね。ですから、外の世界の時間と空間をどう見るのか? ということと、≪私≫が心の中で時間と空間をどう見るのか? ということとも同じことなんですね。
加藤周一さんが、手を取り足を取って、教えて下すっているように、日本人の世界の時間と空間の見方は、初めもなければ、終わりもない。日々は同じことの繰り返しであることが普通です。眼の前の≪いまここ≫がいつでも、一番大事ですが、その≪いまここ≫は、過去とも未来とも関係なければ、自分の所属集団以外の「外」とも無関係です。すると、眼の前の≪いまここ≫さえ良ければいい、儲けが出ればいい、過去も未来も、「そんなの関係ねー」(ちょっと古くでゴメンナサイ)、「外」の市民もお客も、「そんなの関係ねー」、ということになりがち。
ですから、「自分の利益のためには、市民やお客を騙しても仕方がねー」という、今どきのニッポンで流行る「ウソとゴマカシ」病は、「流行り病」と言うよりも、遺伝病、ないしは、「世代間伝達する心の病」、「親譲りの病」、といった方が真実でしょう。
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