ルターの発作を、まとまりのあるものとして見るとどうなるのか? エリクソンの読み解きが続きます。
マルティンの普通の気分は、修道士になる前は、(修道士になった後だって)聖歌隊での発作の時も再び落ち込んだ気分なのですが、ルター自身も、他の人たちも、「トリスティティア」の状態、すなわち、悲しすぎる気分と見なされてきました。あの嵐の日の出来事の前は、マルティンは、すぐに、憂鬱で何にもできない状態に落ち込んで固まっていたのでした。そうなると、勉強も続けられませんし、父親が勧めてくれる結婚について考えを定めていくこともできません。雷の日の出来事の中で、マルティンはすぐに不安になりました。この不安は、angustus 窮屈から来ていて、閉じ込められて、息ができない感じでした。マルティンは、circumvallatus 囲われている を使って、あの嵐の日の出来事で経験したことを描いているのを見れば、マルティンが、自分の人生すべてに不意に窮屈に感じて、しかも出口は一つしかないと感じていたのが分かります。それは、以前の生活すべてとこの世の未来を、新たな人生に完全に献身するために、捨てることを示します。この新たな生活とは、しかしながら、まさに囲われた形から1つの習慣を創り出す生活です。それは、建物に関しても、儀式についても、世間全体の気分においても、新たしい生活は、この世の生活を象徴していました。それは、自らに課した、自分で意識している、1つの牢獄なのですが、しかも、唯一実存し、永遠に至るものなのです。この人生に対する1つの見方を受け容れることによって、マルティンは、一時、穏やかな、信心深い気持ちになれました。たとえ、発作があっても、また、あの悲しみが深くなっても、一時は穏やかな、信心深い気持ちになれました。
ルターは実に憂鬱な人だったことが分かります。ちょっと近ずきたくないようなタイプかもしれませんね。愚痴や不平や不満を聴かされるに決まっていますからね、この手の人は。
ところが不思議なことに、そんな人も自分の人生に対する見方が分かると、始めは一時かもしれませんが、落ち着きと信頼感に満ちた感じになれるのですね。
「見る」ということが、実に決定的なことが分かります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます