能動的に受け身になるのは、自分の声に従うことでした。
Find your own voice ! 自分の声を見つけなさい。
Young Man Luther 『青年ルター』p209の第2パラグラフから。
ルターにとって、聖書の話をする人、祈りの人にとって、聖書の御言葉が≪いまここ≫にあることを、どれだけ深く受け止めているのかを図ることは、「本気になる」くらい疑いの余地もないほど、その御言葉を全人格的に出来事にしているか次第でした。人がそれほど本気じゃない気持ちのことを言うのは、矛盾しているように思うかもしれません。でもね、儀式だとか、式典だとか、行事だとかは、一時の効果しかないのは明らかでしょ。その一時の効果は、その場限りで、後は、日曜礼拝の衣装と一緒で、タンスにしまっちゃうものですよね。
聖書の御言葉を日曜礼拝で、ありがたく聴いてきても、礼拝用の立派な衣装をクローゼットにしまったら、ありがたい御言葉も、一緒にクローゼットに大事にしまっちゃう。そんなことも笑い話のようで、現実の場合が少なくない。すると、日常生活の月曜から土曜日は、御言葉とは関係のない暮らしになる、なんてことも、よくある話になりますね。
エリクソンは、そこで、日常生活の中での礼拝、ということの大事さに思いを致し、実践するようになった、という訳です。面白いでしょ。
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