エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

エリクソンが教えてくれる「救い」 : ツェダカーとヘセド

2015-06-30 04:00:06 | エリクソンの発達臨床心理

 
良心の 父と母の仲が悪いと…
  フロムが語る良心は、非常に能動的ですね。フロイトが考えた良心は、文字通り両親を取り入れたもので、他の選択肢は当面ないところに受動性が垣間見えます。...
 

 

 

 エリック・エリクソン Erik H. Eriksonの著作で、私が大好きで、しかも、一番読んでいるのは、Toys and Reasons 『玩具と叡智』です。場所によっては、もう何十回も読んだでしょうか。何度読んでも新しい発見があって、いつもドキドキして読んでます。エリクソンの著作で、一番大事なものだと私は考えています。

 それと同じくらい大事なのが、The Yale Review  Spring 1981 vol.70『エール大学評論』1981春号 70巻 所収の The Galilean Saying and the Sense of " I " 「ガリラヤの言い伝えと≪私≫という感じ」です。

 これを日本語に翻訳したものは、いまだに出版されていません。2014年7月16日の「儀式化はラトレイア 礼拝なんです」から、2014年11月6日の「ガリラヤの言い伝えと「≪私≫という感じ」 最終回」に掛けて、このブログで翻訳したのが、実は本邦初なんですね。このブログの読者で、出版関係の人がおられましたら、この翻訳は是非とも出版したいと思いますから、ご連絡した戴ければと思います。ついでに言えば、みすず書房の関係者がおられましたら、Toys and Reasons の近藤邦夫さんの翻訳は、エリクソンの著作を台無しにするものですから、別の方、よろしければ、私に翻訳させてもらえたらと願っています(すでに、当ブログで翻訳済みですが)。

 前置きが、いつものように、長くなりました。このエッセイの中で、エリクソンは、「メタノイア」、「光」、「神の支配」など様々な聖書の大事な御言葉について、エリクソンが臨床で確かめたことから話を進めています。聖書からの引用もたくさん出てきます。

 キリスト教で「救い」と呼ぶと、何か難しい感じがします。私もエリクソンのこの「ガリラヤの言い伝えと≪私≫という感じ」を繰り返し読むまで、実は何十年も分からなかったんですね。キリスト教で「救い」と言ったら、「神の支配」の従うことなんですね。実際には「『神の国』、『天国』に入ること」が救い、と言われる場合が多いですがね。エリクソンも、『新約聖書』の「ルカによる福音書」第17章21節を読み解く中で、その「救い」について、述べています。この聖書箇所は、ファリサイ派の人から「神の国は何時来ますか?」と問われて、イエスが応えているところです。このファリサイ派の人たちは、お役人みたいに、ルールを何のために作ったかという精神を忘れて、ルールの文字面ばかりを大事にする、真面目人間ですが、心は不満でいっぱいの人たちです。エリクソンのエッセイのクライマックスが、この聖書箇所に触れているところに来ていると感じます。まずは、この聖書箇所をいくつかの翻訳で見て見ましょうか。

 まず岩波文庫(岩波クラシック)の塚本虎二訳

「また、『そら、ここにある』とか、『かしこにある』とかいうこともできない。神の国はあっと言う間に、あなた達の間にあらわれるのだから。」

 つぎに、山浦玄嗣さんのケセン語の翻訳です。

「それに、『ほれァ、此処さぁあっぞ!』どが、『其処さあっぞ!』って語るようなもんでねァ。ほれ、よぐ見ろ。・・・ 神様のお取り仕切りぢ(山浦玄嗣さんがケセン語を表記するために用いている文字、「ち」から横棒を取った文字に濁点を撃ったもの)ァ、其方等ァ間に今まさにあっとォ!」

 神の国は、神が支配しているところ、神様がコントロールする場面です。それが「あなたたちの間」、すなわち、「私どもの間」にある訳ですね。エリクソンは、この「間」って何? と問う訳です。この「間」は、聖書のギリシャ語では、エントス εντος です。エリクソンはこれを、2つに分けて、between youとwithin you の二重の意味があるとします。前者は「私とあなたの間」であり、後者は「私の中」「自分と本当の自分の間」「自己内対話」のことです。

 対人関係、すなわち、「私とあなた」の関係は、実は、「私の中」の「自分と本当の自分」との関係と、パラレル、比例関係なんですね。人は、「本当の自分」を大事にすればするほど、「あなた(相手の中の本当の自分)」を大事にできる訳です。この大事にする関係が、やり取りのある関係になることが、「神様の支配」であり、「救い」だというのが、エリクソンの主張です。「本当の自分」の囁きは、一見「自分が損すること」である場合が多い。その損をあえて意識的に選択する、それがツェダカー(「正義」と訳されることが多いけれども、本当の意味は「施し」「損すること」)なわけですね。しかも、それが自分を大事にすることであると同時に、相手を大事にすることになる訳ですから、ここに、ツェダカー(ギリシャ語ではディカイオスーネ)とヘセド(ギリシャ語ではアガペー)が完全に一致するのですね。

 

 私が損することから始まるやり取りのある関係、それがキリスト教で言う「救い」です。

 

 ここには、計り知れない、はじけるような喜びがあります。

 あなたもどうぞ、ご大切にね!

 

  

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