10代と20代前半は、自分を確かにすることが、ままならない時期ですが、それを確かにしたいと願って、その方向に歩みを進めることができます。しかし、多くの場合、特に現在の日本のように、自分を確かにすることに拒絶的な社会においては、そういう道を歩むことをあきらめて、「多数派」に与する生き方を選ばざるを得ない、いいえ、結果的にそうなっている人が、驚くほど多いです。それは、人間を上下2つに分けるウソを生きる道でもあります。なぜなら、「多数派」となり、「上」になることによって、偽りの「自分を確かに」しようとするからです。しかし、それがウソ、偽りであるのは、「多数派」は常に相対的なものでして、いつでも「少数派」に陥る危険があるからです。結果として、自分は「褒められれば舞い上がり、けなされれば落ち込む」という、自分が不確かであることに、繰り返し直面することになります。
2 ヒッポリュトス(紀元前428)
エウリピデスから引用したいと願う、2つ目の1節は、『ヒッポリュトス』からです。ご承知のように、この戯曲は、パイドラがヒッポリュトスを愛したことについて書かれています。そして、「パレーシア」に関する1節が登場するのは、パイドラが告白したすぐ後です。そこでは、パイドラは、この戯曲のごくはじめですが、ヒッポリュトスを愛していることを、自分の乳母に告白します(しかし、ヒッポリュトスの名は言いません)。しかし、「パレーシア」という言葉は、この告白とは関係ありません。まったく別のことです。パイドラがヒッポリュトスに対する愛を告白した後、パイドラは、他の男と不義を犯したために、家族や、自分の亭主と子どもに対して恥さらしを演じた、身分が高く、高貴な生まれの王室の女性たちについて話をします。それから、パイドラが言うには、「私は同じことをしたくはないわ。なぜって、息子たちにはアテネで暮らしてほしいし、私のことを誇りに思ってもらいたいからね。それに、「パレーシア」をやってもらいたいのよ。」とのこと。それで、パイドラが主張するのは、もしも一人の男が家族の汚点に気づいたら、その男は奴隷になる、ということです。
パイドラ : 私は夫や子どもたちに恥をかかせることは致しません。私は二人 の息子たちには、栄えあるアテネに戻って、そこで暮らしてもらいたいし、毅然としていてほしいの。それから、自由人のように自分の考えを話してほしいしね。肝が一番座っている男でも、奴隷になることが一つあるとすれば、それは親の恥さらしの行いを知ることぐらいでしょ。
親が恥さらしをしていると、肝が一番座っている男でも、奴隷になるといいます。「奴隷=自由がない、不自由」ということです。自由にものが言えない、という不自由が奴隷なのです。
多数派でいること、自分をごまかして生きることは、自由にモノを言えない、言わないことを意味します。したがって、多くの日本人が、奴隷であることが、ハッキリ、キッパリ、判りますね。
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