最近の「追いかけっこ・鬼ごっこ」から見えたこと。私は小学校のカウンセラー。子どもには「遊びのオジサン」と呼ばれています。子どもたちが好きな遊びといえは、氷鬼やケイドロなど追いかけっこ・鬼ごっこ。英語ですと、...
「叡智」は、「見て知る」ことから。
The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の始めに戻って、「完成版の前書き」、p.6の、第5パラグラフから。
ものが見える賜物を得ている人が、ものが見えない暮らしがどんなものになるのかを考えることは、痛ましいことですから、そういったことを考えないようにしがちでしょ。物を見る眼を洗得られなかった人たちは、おそらく、聴く力、嗅ぐ力、味わう力、触れる力を、かなり発達させるのでしょうね。ものが見えない人らが他の感覚を広げて鋭くすることで、どれほど豊かになっているのかは、誰にもわかりません。多分ものが見えない人からすれば、私どもはものが見えることに頼り過ぎてて、実際には見えなくなっていることがある、ってことを知ってますね。
眼の見えない人が、実は物事をよく見ていることがあることが、実際ありますよね。そう言って思い出すのが、共働学舎を作った宮嶋眞一郎先生ですね。目は見えない代わりに、心の眼、一隻眼がある感じの本物の魂の教師、霊的な教育者でした。
眼が見えないことが、洞察力と判断力を研ぎ澄まし、眼に見える世界を超越する世界に開かれることがあります。
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