霊的な教育の続きです。
内村鑑三は、独立を大事にしました。内村の教育を受け継いで、鈴木弼美(すけよし)が山形県小国は叶水(かのうみず)に作った学校が、「基督教独立学園」と「独立」を冠するほどです。この独立とは、どういうことを言うんでしょうか?
基督教独立学園高校のHPによれば、
「「神を畏るるは学問の始め」(箴言1:7)を教育の基軸に据える本校にとって、朝拝・夕拝と日曜礼拝は、学園生活の必須の要です。聖書の言葉に毎日触れながら生活し、思索し、祈り、正直に「自己」と「真理」を探求する。入学時に校長と交わす「契約の書」に立って、どこまで「嘘のない生活」ができるか格闘する。その中で「神を畏れて、人を恐れない」(内村鑑三)、真に自由で自律的な独立人を育てたい。」
人が独立するためには、「神を畏れて、人を恐れない」ことが必要みたいですね。これは、日本人に多い行動様式からすると、正反対の態度です。多くのニッポン人は、「人間を上下2つに分けるウソ」を盲信していますから、それぞれこの世の「ムラ社会」に依存してんですね。「ムラ社会」は、会社だったり、学校だったり、ある部局だったり、町内会だったり、様々です。ニッポン人は、それぞれの「ムラ社会」の「上」に対しては、手もみ、肩もみ、オベンチャラ、「下」に対しては、アザケリ、陰口、村八分、と相場が決まってますからね。
独立の人は、基本はパレーシアステス。自分より、立場の強い人に対しても、「義」を大胆に主張します。むしろ、年下や、社会的に不利な立場の人の話を虚心坦懐に聴く立場です。中江藤樹先生の話でも、藤樹のもとを訪ねて来た岡山藩主は待たせておいて、村の子どもに対する講義を優先する話が出てきますでしょ(岩波版、p126~127)。
でも、神も仏も信頼しない人はどうすればいいのかしら? と心配になる人もいるでしょう。それも、基督教独立学園のHPから引用した「教育の基軸」にヒントが隠れていますよ。それは「正直に「自己」と「真理」を探求する」ということ。「自己」は「我」を超越するもの、「真理」は「この世」を超越するものでしょ。そういう≪超越≫を求めてないと、独立は無理。中江藤樹先生も、≪天の法≫と言う≪超越≫に従っていたからこその独立でしたね。
手もみ、肩もみ、アザケリ顔の日々を、あなたは生きたいですか?
それとも、自由、自律、独立の日々を、あなたは生きたいですか?
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