良心がマヒしているのも危険ですが、良心が強すぎる(?)のも、考え物です。
「こういった迷信は、原始的なこだわりでしょう」とみなしたくなりますし、「かわいそうに、もっといいものも知らないのよ」だとか、「かわいそうに、取りつかれちゃってるんだわ」とかいうことになりがちです。しかし、私どもが見逃してはならないのは、常識の範囲内で、すなわち、この迷信は、みんながパニックになったり、不安神経症になったりすることによって、毒されている訳ではないという範囲で、未知の事に対して、集団が対処するやり方だったという点です。危険に満ちていた世界においては、迷信は安全牌として役立ちます。なぜなら、迷信のおかげで、馴染みのないのでも馴染みのあるものにしてくれますし、自分が心配していることや自分が折り合うことができずにいることに対して、「そうですか、分かりました」ということができるようになります。そういう人は、程よく自由にしているときに自分がよく見て納得したことは、他の人に教えることさえできます。それは、心境が似た者同士の約束によって、「あの人が想像していることは、腐敗や絶望から生じているのよ」とする悪口から自由ですし、あるいは、「あの人ったら、取っ付かれているだけよ」という悪口からも自由である時の認識です。コンプレックス、心筋梗塞、社会主義者を抱えた今日、私どもが他にできることがあるかどうか?
太古の人を、「原始人」などと言ってバカにできませんね。エリクソンもそういいたいのでしょうね。
今ここに生きる私ども日本人も、安倍晋三首相が「アンダーコントロール」と言われれば、「福島第一原発はもう大丈夫なんでしょう」という迷信を信じていませんか? NHKの7時のニュースが、「消費税値上がり前の駆け込み需要」のことを流せば、「消費税の値上がりは、駆け込み需要すれば、当面解決するのかな」という迷信を信じることになりませんか?安倍晋三首相が「消費税は、社会福祉目的税です」といえば、「今後社会福祉はよくなるんだ」という迷信を信じることになりませんか?
私どもは、このような時の権力に都合のよい「迷信」を疑う、高い知性と洞察力、「効く鼻」を持っていたいものです。
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