目には見えないこと > モノと数
エリクソンは、心の根っこにある傾向をはたして変えられるものなのかどうか、という疑問にどう答えるのか? それが問題です。しかし、今日はその前に、人間らしさと人間らしい力について、大...
ベトナム戦争は、もう40年ほど前のことですから、同時代的に知っている人はずいぶん少なくなったでしょう。かくいう私も当時は小学生。事情はよく分かりませんでした。ただ中学生になったばかりのころ、「南ベトナムが北ベトナムに負けて、戦争が終わった」ニュースをNHKで見て、「よかったな」と思ったことは、ニュースが示したサイゴン陥落の地図と共に、よく覚えています。
物量において、北ベトナムをはるかに凌ぐアメリカ軍が、北ベトナムになぜ負けてしまったのか? 今日のエリクソンはそれがテーマ。武力の面で北を圧倒していたアメリカもまさか負けるとは思っても見なかったでしょうね。あの広大無辺を思わせる、物量の国ですからね。戦車が勝つと信じていたでしょう。
それでも、言葉が戦車に勝つ。ベトナムであったことは、プラハ、チェコスロヴァキアでもあったのです。
「言葉は、どれほど鋭くても、またどれほど多くの人々の声になっても、一台の戦車さえ破壊することができない。戦車は、すべての声を沈黙させることができるし、プラハの全体を破壊することさえできる。しかし、プラハ街頭における戦車の存在そのものをみずから正当化することだけはできないだろう。自分自身を正当化するためには、どうしても言葉を必要とする。…圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉…」(『加藤周一セレクション5 現代日本の文化と社会』p231)
エリクソンは、ベトナム戦争を遣り出した、「きわめて頭のいい」人たちは、「戦争を非人格化した」と言います。つまり、昨日の当ブログの言葉で申し上げれば、「私には関係ありません」というような態度で戦争に関わったのでした。
でかたや、北ベトナムの人々は、ベトナム解放のために、文字通り「絶えず命を懸けて関わる」ことをし続けたのです。ジョージ・W・ホールは、北ベトナムの勝利は「目には見えないこと、すなわち、意志の要素であり、目的と忍耐の要素であり、苛酷だが、ひとつの対象に絶えず命を懸けて関わる要素」の勝利、と正確無比に観察します。
「横並び」で「皆さんご一緒に」と「群れる」「馴れ合い」の人は、戦車に怯えて、力に動揺し、集団に圧倒されて、苦笑い。
「あなたならでは」の人は、「眼には見えないこと」に賭け、自分自身の声に忠実に聴き従って、戦車に言葉が勝ると信じて、微笑み返し。
あなたはどっちがいいかしら?
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