熱狂主義は、黄金律でさえ、排除の論理と化してしまう。恐ろしいことですね。
p226第4パラグラフ。
もしも私が、人間がゆっくり成熟することにある、極めて有害な可能性を、ここまで強調してきたならば、それは、教条主義的な悲観主義に立ち止まるためではありませんでした。教条主義的な悲観主義は、臨床に没頭することから簡単に生じますし、また、それは、ただ単に、心配だからやめときましょう、ということになることがしばしば。人間の道徳的、価値的、倫理的な傾向は、非常に価値ある統合へと向かう場合もありますし、実際場合によっては統合されました。それは個人でも集団でも、そういった傾向は1つにまとまります。それは個人や集団が、寛容でも厳格でも、柔軟でも固定的でも、賢くても服従的でも、統合されます。特に、人はもっとも無垢な指導者に敬意を払うことによって、自らのより良い可能性をぼんやりと知ることが出来るのが常ですね。その無垢なる指導者とは、2つに分けることなどできない人類に対する、もっとも単純で、最も包括的な物差しを教えてくれています。
ここはちょっと難しいところ。具体的なイメージがつかめそうでつかめない。ただし、「人間皆兄弟」、1つの人類という最も単純で最も包括的な物差しを教えを教えてくれる指導者に従う時に、道徳と価値と倫理が一つになる、という点だけは、ハッキリしていますね。
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