<私>を育てることは<生きていく方向(オリエンテーション)>を内面化するとともに、<生きていく方向(オリエンテーション)>に従って、具体的に暮らすことでもあります。<生きていく方向(オリエンテーション)>は、一朝一夕に真似のできるものではありません。毎日毎日、奥さん(旦那さん)の声や上司・同僚の声やマスコミの声、それに、世間の声や、すぐに「○○はダメでしょ」「自分を出しちゃダメでしょ」と否定してくる心の声をかき分けて、自分自身の小さな声を聴き分けていかなくてはなりません。それは極めて孤独な(alone [1人]であり、lonely[寂しい]であると同時に、solitude[自分自身の声を聴き、対話するゆとり、自由]にもできる)作業です。それは日常生活のごく些細なこと、ごく些細な関わりを通して、自分自身の小さな声に従うことを繰り返す中で、<私>が育っていくのです。その中で、不思議なことですが、<生きていく方向(オリエンテーション)>も育っていきます。まさに、神は細部に宿りたもう、です。
Toys and Reasons. 『おもちゃと、覚めた精神』のp122。最後のパラグラフから。
デ・ヤング美術館で、ヴァン・ボルジッヒの「受胎告知」を私どもは見ました。それは、フランドルの主君のために16世紀初頭に描かれたものです。この絵を一目見れば、その匿名性そのものと、単純さそのものの中に、この絵は、人間の陽気で楽しいヴィジョンにある、たくさんの根源的な要素をひとまとめにしている、と私どもには感じられました。この人間の陽気で楽しいヴィジョンの根源的要素とは、個人の発達の中にある、目に見える、陽気で楽しいの、源から、陽気で楽しいの、最も実存的なヴィジョンの意味までです。ひとつの「お告げ(受胎告知)」は、もちろん、「永遠の見通し」を告げる訪問ですし、今度生まれてくる子どもが、子ども時代が約束する、その約束のある一端をずっと守り続け給う「神の子」になることを見通すものです。子ども時代が約束するものとは、「神の国」です。そこでは、マリアは、「神に選ばれた存在」です。天使の存在と目を感じて、マリアは一冊の広げていた本を下します。マリアが勉強していたそのページ(そして、この1ページもまた、枠付けされた視界です)が、「光に照らされて」いるのが分かります。つまりこれは、聖書のテーマである、一筋の光の出現を前にして跪く1人の人を示しています。一筋の光が出現するのを前にして跪く人間とは、古い約束を神から預かった預言者、モーセではないですか? それはちょうど、将来、新しい約束を神から預かることになる預言者、キリストと同じでしょう。しかし、マリアが影になるのは、厳かにキラキラと光る目の、御使いが現れたからで、「あなたの中には、キリストが宿りたもう、1人の『新しい人』を約束する方が宿りたもう」という言葉を伝えます。さらには、実際に、聖霊が、代理人ですが、金色に輝く鋭い一筋の光に乗り、舞い降りてくるのが見えます。
「受胎告知」の絵を通して、エリクソンは「約束が、光を伴うもの」であることをどうやら言いたいようですね。
これは宗教画の解説をエリクソンがしていると思う人が出てくるでしょう。確かに、エリクソンは、ここでヴァン・ボルジッヒの「受胎告知」の絵を解説してくれています。しかし、それだけではない! のです。
今日のところは、<私>が育つ、心理的、実存的な場面を、象徴的に語っている部分でもある、と私は感じますね。
つまり、これは、solitudeとはどういうことか? を具体的に教えてくれているのです。周りの人の声や、世間の声と自分自身を否定する心の声をかき分けるために、一人静かな時を持つと、<ささやく小さな声>が聞こえてきます。それはまるで、天使ガブリエルのお告げです。その声は、お告げみたいに、子どもの誕生を知らせてくれます。その子どもこそ、まるで神が慈愛をもって守ってくださる約束みたいに、自分自身を生かしてくれる約束、「たとえ母親があなたを見捨てることがあったとしても、決して決して私はあなたを見捨てない」という約束をずっと守ってくれる存在です。その約束は、ありがたい、人間にとってこれほど感動的なものはないと思う約束ですから、その約束、その声は、光のように感じます。なぜって、それは明るさと温もりを感じる約束だからです。明るさと温もり、それは光そのものです。この明るさと温もりのある約束を信頼できるからこそ、私どもは、陽気で楽しい、ができます。私どもはそのようにして、「新しい人」としての<私>が育っていきます。実に不思議なことですね。今日のエリクソンは、まさにこのsolitudeを、この絵を通して、私どもに教えてくれました。ありがとうございます。
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