学校が発達トラウマ障害≒愛着障害の子どもを虐待しているニッポン魂の中核 人は1才を過ぎたあたりから、あるいは3才、4才になってからの人もいますが、1人立つことを学ぶと、視界は360度効きませんから、前や後ろ......
今朝の聖書の言葉は,「地の塩」です。
「目からウロコ」みたいに,クリスチャンでなくても,「地の塩」は知っている場合が多い言葉でしよう。フェイスブックを見ていたら,この「地の塩」を掲げている人がいたんですが,その使い方に強い違和感を感じたものですから,改めて取り上げてみたいと強く感じました。
多くの誤解があるのは,「地の塩」と言うのはクリスチャンのことで,世の中を少しでも良くしたものにするため,「地の塩」の様な働き,腐ったとモノに対して,腐らない歯止めみたいに考えている人が多いでしょう。私も最初はそのように教えられた気がします。
でも,本田哲郎神父様に,それは大間違いだと,教えられました。でも,教えられて,「なるほど」とも強く感じたんですね。それは,昨日のブログの「聖書の言葉」で取り挙げたように,「地の塩」とは,「一番小さくされている人」のことなんです。
何でだと思いますか?
ここが「なるほど」なんですけれども,「一番小さくされている人」が持っている感性が研ぎ澄まされているから,らしい。私はもともと「人の気持ちも分からない」と言われてきた歴史が長い者ですから,そのことを知っている友人らは,「本当かしら?」と疑われそうですが,私も神様の計り知れない恵みの中で,「感性を研ぎ澄まされる」経験に恵まれました。その一番大事な経験の1つが,「一番小さくされている」クライアントのサイコセラピーでしたね。それは,「本物と偽物を鋭く見分ける感性」だと本田哲郎神父様はおっしゃいますが,「本当だなぁ」と強く感じます。ドナルド・キーンさんによれば,丸山眞男教授にも,そのような鋭い感性があり,それをパレーシアにキッパリと指摘する勇気もあったらしい。丸山眞男教授も,「小さくされた経験」(一高生の頃,長谷川如是閑の講演会を聴きに行って,特高に逮捕,拘留されたことかもしれません)があったはずです。だからこそ,あのような鋭い,感動的な論文が書けたのだと信じて疑いませんね。
話が横道に入ったかもしれませんが,「地の塩」は,世間では忌み嫌われ,遠ざけられる「一番小さくされている人」のことであって,「海賊と呼ばれた人」ではない,ということを記しておきたい,と思います。
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