#エリクソンの叡智 #エリクソン心理学の方法論 #3つの物差し聖書の言葉 : 人でなし ふたたび タッチ、心が響き合いだす時 日本の公教育の病理 その7 自分を売ったら、あかん! 日本の学校が「言ってること」......
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.118,第2パラグラフ,3行目途中から。その前も,ご一緒に。
日常生活を礼拝にする礼拝を繰り返しより善いものに作り直す
さて,いま,この本のど真ん中を通り過ぎて,私が日常生活を礼拝にすることや,日々の礼拝が発揮するあの力を,殊の外,大切にしていることに,お里が恋しくてお里を守らなくちゃとばかりに抗議する読者もおられるやもしれませんね。日常生活を礼拝にすることや日々の礼拝が,「上手に働く」と,私がほんとうに思っているんでしょうか,とか,日常生活を礼拝にすることや日々の礼拝が,人格や仲間にとって欠くべからざるものと,私が思っているんだろうか,とか,思っている読者もあるいは,おられることでしょう。それに,もしも,こんな「生まれながらの」やり方が,仲間を作る動物や,原始社会やある種の伝統的な社会の中で見ることができるならば,私がここで図表にしたことの核心は,どうしようもない危機のように見えますが,人口が増えすぎて,汚染され,工業化され,機械化された現代社会には,役に立たないのかもしれません。人間の中で,日常生活を礼拝にすることが進化論上極めて大切だ,とすれば,特に,新しく心から優しい話し言葉を話す,日常生活を礼拝にする礼拝を創造する,今に合う道をいかにして見つけ出すのか,という問いを,回避することができるでしょうか? この日常生活を礼拝にする礼拝は,マスコミによるものであったり,あるいは,動物行動学者や精神分析家の訓練し過ぎたお眼鏡には適わないかもしれないやり方であったりします。私自身が申し上げたように,驚き感激するヌミノースと,自分が生きている実感を善しとして生きる指針にすることや,生きている実感を遊びにすることや,生きている実感通りに繰り返し生きることは,1つの新鮮なスピリットからのみ生まれますから,全てはキリストのおかげです。この新鮮なスピリットであるキリストは,究極的には,人類全てと一心同体になることを具現化しますから,人類皆兄弟が現実になります。というのも,私どもは,全部が全部,いま一時的に流行りの生き方はしていても,「人間らしい,心から優しい存在」に,最深欲求と結び付けて本気で,なっていない場合がほとんどでしょ?
聖書の神様が創造の前に天からお示しくださった,もう1つの地図に関しては,私の学生さんたちは,「こういった綺麗な指針は,エリクソン自身が心から礼拝で確信しきたことなんだろうか」とずっと疑わずにいたんでしょうかね? 「神様の命が一巡するのって,特権的な人だけができることなんじゃないの?」私が示した人生地図は,理にかなった,命を育むガイドブックみたいなものだ,ということに訝る向きもおありでしょう。でも,そういう疑り深い人たちは,ハッキリとしていることまで否定しがちです。すなわち,大人とは,人生の様々な舞台で,陽気で楽しいことを失ってしまっている,という事実によってまさに定義される人が多い,ということです。貧しくて,ゆとりのない人ばかりではなく,ゆとりが多い恵まれた立場の人も,陽気で楽しいことを失ったら,人はバラバラのままになりますし,生きている実感を感じなくなります。陽気で楽しいを失った大人が,その子どもたちに与えるゆとりにとって,大人たちがさまざまな舞台で陽気で楽しいことを失ってしまっているということによって,大人になることから,あの聖書の神様の命漲る歓びをなくしてしまいますし,結局は,反抗そのものも失敗して墓穴を掘るだけです。
こういった様々な留保に対して,ここで私が申し上げるのは次のことだけです。様々な生き方をよくよく見てごらんなさい。今日の工業化した市民社会が,以前より,より多くの人と,より大胆に自由に,赤ちゃんのころと,大人同士の関係を,繰り返し,日常生活を礼拝にしようとしているのか,をよくよく見てごらんなさい。そうすれば,さまざまな学問を交えた議論か必要になるでしょう。しかしながら,私が指摘したいのは,1960年代に散発的に起きた若者たちの反乱の中で,全人類を大切にする,日常生活を礼拝にする礼拝の作り直しが,果たして行われたのか? という重大な問いが問われるようになったのか? ということです。あの反乱は,全ての対になる心耕す生業同様に,(訳注:弱い立場の人の痛みに対する)想像力をなくしていることに対する腹の底からの痛みと,高い代価を支払わなくてはならない,(訳注:弱い立場の人の痛みに対する)想像力をなくしていることを,世の指導者たちが否定していることに対する,心の底からの痛みとを示していたんです。その世の指導者たちは,若者たちを血塗れの源である戦争の中で「奉仕させる」ことに頼り続けていますから,若者たちは,その血塗れの源である戦争は,互いに大切にし合う目的には適わないと感じましたでしょ。それは,序文で示した引用が示すように,植民地戦争という,ウソとゴマカシだらけの現実でした。植民地戦争という,ウソとゴマカシだらけの現実は,ますます,殺しすぎる化学兵器に頼るようになりましたが,同じくらい,ますます,人を絶望的に不安にさせることになりましたでしょ。ウソとゴマカシだらけの現実じゃぁ,聖書の神様から頂いている命をイキイキと生きる者にとっては,聖書の命の一巡する中では,聖書の神様の命が生きる「命の道」としては,その命が生まれませんし,死んでも死に切れません(殺され損です)。
しかし,日常生活を礼拝にする礼拝を繰り返し善いものに作り直すことが,人を復活させる力に関する問いについて,私がここで改めてお示しできる唯一のことは,私が生まれる時にも,仲間が生まれる時にも,すなわち,個人の歴史においても,人類史においても,過去は現在に刷り込まれている,ということです。というのも,こういった過去が現在に刷り込まれているという心眼がありますと,過去が刷り込まれた現在を,未来のために解放することができるからです。しかも,現在に刷り込まれた過去のパターンを明らかにして解放する点で,動物行動学者と精神分析家は,同じ仕事をすることになります。動物行動学者は,本能パターンと呼ばれる物の力を明らかにしますし,精神分析家は,いわゆる,本能似のパターン,すなわち,現在に刷り込まれた過去の愛着パターンの力とひとりびとりの心の仕組みと 自由にされた仲間の意識とを,明らかにしますから。それから,人が育つ見通しは,歴史や科学技術が早く変化するのに比べると,育つのにとても時間がかかることを考慮に入れなくてはなりませんから,精神分析家の見通しは,殊に,人間が最初に作る愛着パターンを変えるのには,とても時間がかかることを肝に銘じなくてはなりません。そして,中でも,日々の生活に密着する,この世の中に対するイメージがほしい気持ちと人類皆兄弟のヴィジョンを一体にすることは,とても時間が掛かることも肝に銘じなくてはなりません。
さて,日常生活を礼拝にする古臭い様々な礼拝は,新世界が登場する中で,簡単に打ち捨てられるものかもしれませんね。なんせ,新世界には,科学技術を駆使し,マスコミのやり方で,互いに間違いを正して,ピッタリ合わせることを強制する「聖書の神様が定めた」素性の分からないお上が,「互いに大切にしあう生き方を勧める聖書の神様」,の代わりをする,生活習慣がつきものですから。しかし,現代の科学技術が,それに見合った日常生活を礼拝にする礼拝を,家や仕事場でのニーズとチャンスにくっ付ける時,また,世界中を駆け巡るマスコミによって,新しい,さらに広範な仲間を作るとき,新たな預言者が,日常生活を礼拝にする礼拝を打ち捨てることで,生きる場を空っぽにします。ですから,私どもの務めは,「私が生きている実感」を育てて様々な法則にするには時間がかかる,ということを具体的に示し続けることです。「私が生きている実感」を育てて様々な法則にすることは,心からの優しさを見失った偽物の理想に傾きすぎますと,人は忘れるきらいが大きいんですから。というのも,子どもが生まれますと,新くて古臭いキリストが立ち現れて,世の中に対す新しい特別に良い見方(訳注:互いに大切にし合うこと,そして,人類皆兄弟)を求めることになります。このことは,私どもが肝に銘じておかなくてはならないことです。それは,「共に見通す」様々なヴィジョンの役割と言葉とを見極めた所に立ち返る時でもあります。
しかし,結論の中で,私は聖書の神様を信頼します,と正直に申し上げなくてはなりません。聖書の神様を信頼するというのは,今日,毎日の生活を繰り返し礼拝にして様々な形で十字架を切ることが,昔ながらの聖書の神様を信頼して生きる生き方が崩れていくど真ん中に,たくさんありますからね,ということですよ。また,毎日の生活を繰り返し礼拝にして様々な形で十字架を切ることは,ウソのない真実な暮らし,そして,陽気で楽しいことが,本物のクリスチャンの目印になる,ということですよ。
本物のクリスチャンの目印は,週末に教会に行くことではありません。
本物のクリスチャンの目印は,今宵エリクソンが教えてくれたみたいに,
1) ウソのない真実な暮らし
2) 陽気で楽しい
だけです。
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