子どもの遊びの3つの意味
今日から、2本目の論文に入ります。Toys and Reasonsのp.41~51のSeeing Is Hopingの翻訳をします。それでは、タイトルを含めて、第1段落を翻訳しま...
「勉強しなさい」。この言葉くらい、日本の学校や家庭で大人が口にする言葉はありません。残念です。その「勉強」のとらえ方があまりにも狭く、また、硬直しています。だいいち、あれじゃあ、楽しくありませんからね、その「お勉強」そのものが。そもそも、ギリシャの昔には、学校、ギリシャ語のスコレー σχοληは、「暇ひま」という意味の言葉です。人間暇なときにすることと言ったら、基本は遊びでしょう。 そこで仕事をするのは、仕事中毒の日本人くらいでしょう!ですから、そういう勉強も、基本は遊び、楽しいものに決まっています。
私は学校に参りますと、したがって、「遊ぼう」と子どもたちに言います(子どもに、「学校って、本当は『暇』という意味なんだよ」と何度か言ったことがあります。すると子どもたちの反応は「えっ、ウソ!」です。この話題はまた、別の機会に譲りましょう)。「遊び」の中で面白い、楽しいものに出合うと、何だろう? 何故なんだろう? どうなっているんだろう?…といろんな「?」が見つかります。その「?」をいろいろ調べたり、観察を続けたり、考え続けて、筋を通すのが、本当の勉強です。そして、「あっ、そうか!」とわかると、「?」が「!」に代わります。その時の感動は言葉になりませんよね。嬉しくてたまりませんよね。ふじぎでしょ?
「?」が「!」に変わる過程は、まど・みちおさんが詩を作り出す、いいえ、詩が湧いてくるプロセスとおんなじです。ですから、遊びから詩も生まれます。遊びと詩は親戚なのです。
子どもに出会ったら、「遊ぼう」といいたいものです。「勉強しなさい」じゃあ、ありませんからね。
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