エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

今は、鏡におぼろに映ったものを見ている 改訂版

2015-02-12 13:06:46 | アイデンティティの根源

 

 ケダモノ以下のナチスを体験済みのエリクソンにとっては、恐怖政治が「正しいこと」の押し付けと結びついていたことは、自明のことだったでしょう。ナチスがやったのは、「アーリア人として≪正しいこと≫」。ですから、アーリア人ではないユダヤ人やロマなどの人々(「ジプシー」と差別されてきた人たち)は、ジェノサイドの対象になったのでした。

 Young Man Luther 『青年ルター』のp182のブランクの後。

 

 

 

 

 

 それで、1つの哲学的な問題は、ローマカトリック教会の中で縦の関係がこの世にどんな形で留まるのかという定義、天国で縦の関係がどうなるのかという未知の運命、縦の関係でのやり取りはどうなるのか、に関する問題です。これは、見えざる神の面前で人が自分を確かにする、という問いですし、同時に、人の暴かれた素顔を前にして神が自分を確かにする、という問いでもあります。この問題は、お互いに価値あるものとして認め合っているという暗示を、おぼろげな鏡を通して、あるいは、ぼやけた笑顔を通して、果たして受け取れるのかな? という問いを示しています。

 

 

 

 

 聖書の知識がないと、翻訳が難しいところですね。縦の関係の中で、神と人がお互いを認め合うことは、母子関係で、お母さんと赤ちゃんが認め合うことに似ています。神はいつでも隠れています(眼には見えない)が、母親は頻繁に隠れる(眼の前からいなくなる)のも、似ています。果たして、自分は価値ある者として認められるか否か?が生死を分かつ課題であるのは、この世でも、あの世でも、似ています。

 

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