真実って、生きていく上で、エッセンスですね。
p348の第3パラグラフ。
関係しそうな言い伝えを、大人の存在と言う名の境界線と関連付けるために、人生最初の時期、つまり、子どもの頃に、焦点が当たっている言い伝えに目を向けましょう。「マルコによる福音書」第10章には、弟子たちがある人たちを非難している話が出てきます。その人たちは、子どもたち(「ルカによる福音書」によれば、まだ乳飲み子だった」をイエスのところに連れてきて、イエスに「手で触ってください」と言うわけです。「イエスは腹を立てて、言いました。『その子どもたちを私のところに連れていらっしゃい。ハッキリ言っときますけどね、一人の子どもがするように、≪神様が支配するところ≫である≪やり取りのある関係≫を受け入れなければ、だぁーれも、≪神様が支配するところ≫である≪やり取りのある関係≫に入れませんよ』と。そして、イエスは、両腕で子どもたちをギュッとしてから、子どもたちが生まれてきてくれたことを感謝して、子どもたちの頭に手を置きました」(「マルコによる福音書」第10章14節~16節)。
イエスは、子どもたちが≪やり取りのある関係≫に対して素直なことを百もご承知です。ですから、大人の側にその≪やり取りのある関係≫をする意識さえあれば、すぐに2人の間に≪やり取りのある関係≫が成り立ちます。
学校でよく見かけるのが、≪やり取りのある関係≫よりも、「指導」や「授業」に囚われている教員、管理職です。ずくに「いいことを教えよう」とするから困ります。まるでイエスが叱った弟子たちのようですよ。子どもをすぐに「注意」するんですね。自分が「注意される立場」であるのも知らないで。イエスならずとも、腹が立ちますよ。でもね、私は学校現場では「弱い立場」。腹を立てずに、「≪やり取りのある関係≫を大事にしてください」、「何かを教えるよりも、子どもたちの『声なき声』に耳を傾けて」、「ピッチャーよりも、キャッチャーになってね」といいます。
教員や管理職も、子どもたちのように「天国に行けますように」と日々祈る毎日です。
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