「悪い良心」が溢れたニッポン。
ウソとゴマカシが溢れたニッポン。
支配と服従が溢れたニッポン。
「悪い良心」は、「ウソとゴマカシ」で、「支配と服従」の関係を弱い立場に強いるもの。
The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p92の、下から2行目から。
このフロイトの言葉は、革命的な影響力と方法を精神分析的に研究することに対して、計り知れない、いろんな意味があります。しかし、最も驚きなことですが、このフロイトの言葉が示していることは、心の動きを作り直すときには、精神分析は、超自我(訳注:良心)を伝統の受け皿としても記しておくことが出来ますし、またそうすべきだ、ということです。特に、超自我(訳注:良心)が伝統の受け皿となるのは、変化や解放に反対する場合です。つまりそれは、主要な歴史的な傾向が、精神分析研究を方向づけるような心の葛藤を反映していることを示しているのです。しかし、私は、発達の視点から、ぜひ強調しておきたいことは、超自我(訳注:良心)にある、子どもの頃の残りカスは、フロイトが示しているように、実際に力のある「正しいこと」を反映するだけではなくて、「正しいことを押し付ける」道徳主義になっちゃう、古くからある「正しいこと」も反映している、ということです。というのも、超自我(訳注:良心)は、想像上のエディプス期と、幼児期の危機、「自分の感じに従って、行動をやっても良い感じ」であるイニシアティブと、「自分の感じに従って行動をしちゃ、ダメな感じ」であるギルトとに、バランスを取るものですが、この超自我(訳注:良心)が特に強調しがちなのは、一連の禁止「ダメよダメダメ」であることなんですね。この一連の禁止「ダメよダメダメ」は、陽気で楽しく「自分の感じに従って行動をしても良い感じ」を壁の中に閉じ込めなくてはならないものだからですし、根源的な道徳を、すなわち、「正しいことを押し付ける」道徳主義的な方向づけさえも、でっちあげてしまうことになるからです。
子どもにとって、最も根源的な大事なことは、≪陽気で楽しいこと≫です。「正しいことを押し付ける」道徳主義は、この≪陽気で楽しいこと≫を窒息されてしまいますから、「ダメよダメダメ」の「正しいことを押し付ける」道徳主義こそが、子どもにとって、一番の「ダメよダメダメ」なんですね。
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