今日は、「大人なのに、子どものまま」というテーマです。
これには、非常に肯定的な意味と、非常に破壊的な意味があると私は考えます。
まずは、非常に肯定的な意味。「大人なのに少年の様だ」と感じたのは、前にこのブログでも記しました、野村實先生です。私が初めてお目にかかったのが、1986年9月ですから、1901年生まれの野村實先生はすでに80代半ばでした。それなのに、少年のような感じの方でしたね。物静かで、非常に素直で、しかも、時に畏れ多いほど、真実に率直だということです。実に爽やかな印象の方です。結核医として治療をする中で、病気を治すだけでは、足りないと考えて、リハビリという言葉もない時代に、社会的に元患者が生きていけるようにと、全国に先駆けて、東京コロニーを設立したわけです。また、シュヴァイツァーを尊敬して、その研究誌を発刊するほどの傾倒ぶり。お仕事の上でも、学問の上でも、非常に偉い方なのに、偉そうなそぶりは微塵もない。むしろ、「慎み深い」ということが適当な方です。根源的信頼感が豊な人の、1つの形は、野村實先生だと確信しますね。野村實先生は確信に満ちているからこその、「慎み深さ」と「率直さ」という二律背反の共存。私どもも、野村實先生のような人格に少しでも近づきたいものですね。
たほう、非常に破壊的な意味。これはユングに参照したいと思います。ユングの第8夜。今晩は、ユング著作第10巻( Collected Works of C.G. Jung, Volume 10: Civilization in Transition )『転換期の文明』pp.29-49にある Mind and Earth 「頭と地の球」から。
ここで、ユングは大人になれない「大人」について、次のように言います。
「男でも、女でも、子どもの頃に理想化した親のイメージに、(いつまでも)無意識のうちに影響されればされるほど、自分が大事と思って選ぶ相手は、両親の肯定的な身代わりか、両親の否定的な身代わりになるに、決まってます。子どもの頃に理想化した親のイメージが将来にわたって影響することは、異常なことと見なしてはいけません。これは逆で、普通のことですから、極々よくあることなんですね。子どもの頃に理想化した親のイメージの影響は将来に亘るのが当たり前とすることは、非常に大事なことなんですね。さもなければ、両親がその子どもたちの中に生まれ変わることもないし、子どもの頃に理想化した親のイメージは、完全に失われてしまいますから、個人の人生の筋もなくしてしまいます。その人は、自分の子ども時代を大人になってからの暮らしに結びつけられないので、無意識裡には子どものまんまです。それは、しばしば、不安神経症のもとになります。」(前掲書,p.39)とね。
これは、ユングに言わせれば、子どもが両親と結婚している状況なんですね。
ここから解放されるためには、そのイメージに新しい血をそぞくことが大事になります。それは、先日このブログで取り上げた、教師の役割ですし、本物の心理教育です。ですから、子どもに、心の中の囁き、「新しい、素晴らしい道に行け」という囁きがあることに気付いてもらうことが、非常に大切になります。
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