現実とのやり取りを失ったウソ
権力者の嘘に対して抱く国民の気持ちと、親の嘘に対して子どもが抱く気持ちが、おんなじものであることが分かりました。今日はより具体的に、報道の中身が語られます。それでは翻訳です。...
去年の今日も、権力者のウソとゴマカシが、親のウソとゴマカシに似ているというお話の続き。
ウソとゴマカシは、意識してそうしているレベルであれば、修正は比較的容易かもしれません。しかし、エリクソンが指摘している、権力者のウソとゴマカシは、一層厄介です。なぜなら、それは意識レベルから、すでに無意識レベルに落っこちているウソとゴマカシだからです。
これは、親のウソとゴマカシの場合も一緒なんです。意識的にウソとゴマカシを言ったりやったりするのも、どうかと思う向きもおありでしょうけれども、意識レベルのウソとゴマカシなら、まだまし。厄介なのは、無意識レベルに落っこっちゃったウソとゴマカシです。
なぜそうなっちゃうのか?
それは、自分との対話を忘れて、国民を、子どもを支配することに意識が向かっているからなのです。フロムがハッキリ示してくれたように、これこそ、サド、そのものでしたね。自分がサドになっているとも知らずに、国民を、子どもを支配しているのです。「支配」と申し上げると、「ちょっとキツスギル」言葉遣いだと感じる方もおありかもしれません。それならば、コントロールと言っていいかもしれません。国民や、子どもを、権力や、親の都合のいいようにコントロールしようということに、意識が向かってしまっているのです。市民の立場、子どもの立場に立たずに、相手の身になってみることもなくて、市民をコントロールしよう、子どもを都合よくコントロールしようとすることを「支配」というのですがね。
この場合、権力や親は「自分のことは棚に上げて、人(市民や子ども)のことをとやかく」言ったり、やったりすることになります。
それは、自分との対話が足りないからなのです。そして、自分との対話が足りないのは、遊びと「静かな時間」が足りないからですね。いずれも、きっとお仕事に忙しすぎて、「心無い大人」になってしまっているからですよ。
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