学校でイジメがなくならないのは、教員もイジメをしているからだ!ルターが講義をする時 ルターは自分が苦しんだことを人のために役立てました。 Young Man Luther 『青年ルター』p198の第3パラグ......
今宵の聖書の言葉は,根拠のない自信,です。
もちろん,根拠のない自信と言う言葉は,新共同訳の聖書には載っていませんよ。でも,よくよく考えると,聖書の神様を信頼することと,切っても切れないのが「根拠のない自信」です。
どういうことでしょうね?
根拠のない自信を考えるためには,逆に,根拠のある自信について考えると,「なるほどねぇ」と納得しやすいかもしれませんよ。根拠のある自信と言えば,「金持ちだから」,「一部上場企業の重役だから」,「学歴があるから」,「オリンピック選手だから」,「美人だから」,「力持ちだから」,「お餅が好きだから」(これは違うかもしれません)…と色々でしょ。そういう自信もあっていいと思います。しかし,根拠のある自信は相対的な自信でしかありません。それぞれの自信の根拠がなくなってしまえば,自信を失うことになるからです。たとえば,「お金があるから自信があったことは,貧乏になったとたんに,自信を無くす」ということになりかねませんでしょ。
根拠のない自信とは,自分に根拠のない自信のことです。自信の根拠は,自分以外のところにあるからです。たとえば,“ キリストの信頼(私は,信仰は誤った訳なので,信仰とは言いません。)は,私に根拠があるのではなく,キリストの信頼に根拠がある ” んです。「エッ?」,「トートロジーでしょ?」,…。でも,そうじゃないんですね。分かりやすくするため,色分けしてみました。
ギリシア語では,キリストの信頼はεις Χριστον Іησουν επιστευσαμεν,エイス・ハリストン・イェスーン・エピステウサメン,キリストを信頼する信頼ですし,キリストの信頼はπίστις Ἰησοῦ χριστοῦ,ピィスティス・イェスー・ハリストゥー,キリストが態度でも示してくれた信頼・真実・忠実です。そして,根拠のない自信は,自分に根拠があるんではなくて,πίστις Ἰησοῦ χριστοῦ,ピィスティス・イェスー・ハリストゥー,キリストが態度でも示してくれた信頼・真実・忠実に根拠があるんです。すなわち,自分で自分を信頼できるほど誇るべきものは少しもないのに,イエス・キリストが一方的に真実(信実)に信頼してくださるから πίστις Ἰησοῦ χριστοῦ,ピィスティス・イェスー・ハリストゥー,自分でも自分を信頼できるようになるんです,自信を抱くようになるんです。
逆に言うと,人様がご当人をいくらバカにしても,笑いものにしても,そのご当人の自信を少しも殺ぐことができません。
この同じ消息が,エリクソンの根源的信頼感(a sense of basic trust)にも当てはまります。赤ちゃんは,誇るべきものは何もありませんけれども,お母さんが真実に信頼して,世話をし続けてくれるから,赤ちゃんはお母さんを信頼できるようになり,お母さんを信頼できるからこそ,自分も信頼できるようになるんです,自信を抱くようになるんです。
ですから,キリストの信頼も,根源的信頼感も,どちらも,根拠のない自信,πίστις,ピィスティスであり,絶対的な自信なんですよね。
皆さんも,根拠のない自信を一度お試しくださいね。
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