エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

子どもはほんとに言葉の天才

2014-05-08 05:17:37 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
子どもの意識は完全 大人の見本

 子どもが「新しい人」になれたと感じるのは、「闇の中に光を見つける」時ですから、子どもが、「心の奥底から輝く笑顔」でニコッと笑う、と、エリクソンが言うのも分かります。その時、近くに...
 

 「子どもはほんとに言葉の天才」。これは私が考えたことではありません。マハトマ(偉大な魂)・まど・みちおさんの言葉です(『どんな小さなものでも みつめていると 宇宙につながっている』 p.48)。子どもは常識的に考えると、「不完全」、「未完成」なのでしょう。ですから、子どもに対して、さまざまな教育的な働きかけがされている、と言えます。しかし、エリクソンやまど・みちおさんのように、詩的な感性、美的な感性の鋭い方は、「子どもは完全」と見ることが多い感じです。

 「裸の王様」の話は、みなさんご存じでしょう。大人たちは、仕立て屋や王様のウソとゴマカシを、打算や常識(通念)に縛られて、みーんなで信じているフリをしていました。しかし、「王様は、裸だ!」とはっきり指摘したのが、一人の子どもでしたね。その子どもの眼は、大人たちが囚われていた打算や常識(通念)から自由です。そこに、新しい視点、新しい可能性、新しい人、新しい世界が開かれます。

 今日のエリクソンは、こどもは完全であることを、エリクソンならではの視点から述べている部分です。セラピーと遊びの要諦を、さらに展開しているところでもあります。ですから、非常に大事なところです。

 それは、「共に見る」ことの重要性にかかわるところだとも、翻訳したときに、私は申し上げました。それは今でもそう思います。今日は、常識はこの「共に見る」ことであることを申し上げたいと思います。

 常識、ちょっと難しい響きがあるでしょうけれども、しばらくお付き合いいただけたらと思います、英語ですと、commom sense(コモン センス)、「共に感じること」を意味します。これは、ラテン語のsensus communis(センスス コムニス)、ギリシア語のκοινη αισθησις(コイネー アイスセーシス)[ただし、文字化け防止のため、気息記号等は割愛]から派生した言葉だといいます(中村雄二郎『共通感覚論』p.7-8)。ですから、常識とはもともと、「共通感覚」、「共に感じること」がそのはじめです。ですから、『裸の王様』に出てくるような、子どもの視点から、新しい常識が生まれるものなのです。

 しかし、エリクソンが指摘している通り、それは子ども一人ではできるものではありません。誰か近くの大人が、一人でもいいので、その子どもの視点を「価値あるものです」と言って、確証をプレゼントすることが、すなわち、「共に見る」ことがあって、はじめて、生きる視点になりますし、新しい常識が生まれるのです。そして、そこから、新しい可能性、新しい人、新しい世界が開かれます。

 ですから、私ども子どもと関わる者は、この「子どもの視点」を≪価値あるものです≫と確証をプレゼントする存在でありたいものですね。

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