子どもが「新しい人」になれたと感じるのは、「闇の中に光を見つける」時ですから、子どもが、「心の奥底から輝く笑顔」でニコッと笑う、と、エリクソンが言うのも分かります。その時、近くにいる大人にとっても、嬉しいときではないでしょうか? 今日は、再び「共に見る」ことの重要性が取り上げられます。それでは翻訳です。
私が随分裏付けの乏しい言葉をここで使っていることを承知しています。子どもが知っている言葉にとってはあまりにも裏付けがないかもしれませんが、子どもが経験しているいろんな気持ちにとっては、裏付けがないわけではない、と私は思います。なぜなら、子どもの遊びの中に私どもが見て取れるのは、一つの人間的傾向が一人の人の中で発達する姿だからです。その傾向とは、生涯を通して、次第にやり取りの場が広がる中で人と分かち合う傾向、すなわち、目に見えるモデルを作り、そのモデルは仲間たちや先生たちから「価値あるものと認められ」、その仲間たちや先生たちに助けてもらうことで、その遊んでいる子どもが、これまで長い間一人ではできないでいたこと、つまり、恐れていたことを言葉にしたり、夢のような約束を信頼する力を再び取り戻したり、できるようになる傾向です。換言すれば、内なる破壊的勢力を抑え込み、外なる敵対的勢力をやっつけて、だからこそ、自分は新しい人になって、新たな能力を、時空が広くなった現在において、発揮できるとずっと感じていられること、そのことに確信を持つ傾向です。無言の遊びにこれだけの大言壮語をここでしているのは、後ほど議論が進んだ時に、このようなテーマが大人になってからの「共に見る」ことの中に実際にあることを認めるためなのです。とにかく、実存的不安やら確信やらの経験の、子どもの頃のひな形を軽く扱いがちになるでしょう。それは、私どもの意識の不安や確信などの側面について、一人の子どもの、たとえ朧気ではあっても、完全な意識から考えてみる余地を与えなければそうなのです。おとぎ話の普遍的性格を考えれば、子どもが完全な意識を備えていることを、それが実証していることは、確かなことです。
子どもの意識は、不完全なものと見做して、私どもは軽視しがちですが、エリクソンは、子どもの意識が完全なものととらえて、その子どもの意識から、大人の意識を再検証することの大事さを述べています。とても大事な視点です。
私どもは、子どもの詩を読んで感動することがあるでしょう。あるいは、すべての詩は、たとえ大人が書いたものでも、子どもの視点から描かれていると言えないでしょうか? まど・みちおさん、金子みすゞさん、覚和歌子さん、谷川俊太郎さんの詩に、子どものように、いつまでも不思議を感じ取る感覚(センス・オブ・ワンダー a sense of wonder)、子どもの視点を感じます。その意味では、詩も子どもの視点の完全性、普遍性を示していると考えられます。
また別の視点から考えれば、次のように言えないでしょうか? 悪いこと、意地悪なことをしたくなる気持ち(内なる破壊的勢力)よりも、優しい気持ち、温もりのある気持ちを優先すること、そして、悪い仲間や自分の得になる仲間(外なる敵対的勢力?)と一緒になることよりも、良い仲間や、損になるかもしれないけれども弱い立場の仲間やいじめられている仲間と一緒になることを選んでいくこと。これらのテーマは、子どもたちのテーマであると同時に、私ども大人のテーマでもあります。そういう意味では、子どもがそのテーマを実践していれば、私ども大人の手本になります。
今日はここまで。
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