聖書の言葉は,土の器。
昨日と同じ,パウロさんの手紙,『新約聖書』の「第Ⅱコリント人への手紙」第4章に出てきます。
「 土の器
7われらはこの宝を土の器に持っています。それはあふれる力が神のもので、われらからでないためです。8われらはあらゆることに苦しめられながら押しつぶされず、途方に暮れながら行きづまらず、9迫害されながら見捨てられず、倒されながら滅びません。10たえずわれらはイエスの死を体に帯びていますが、それはイエスのいのちもわれらの体に現われるためです。」
私ども,どんなに根源的信頼感が豊かでも,「土の器」でしかありません。途方に暮れる場合もあるかもしれません。虐められるかもしれません。人がニヤニヤしながら掘った穴に落っこちる時だってあるでしょう。私どもは「土の器」でしかないのです。
しかし,その「土の器」でしかないのに,行き詰らない,押しつぶされない,滅びない。何故でしょうか?
それは,
「13あなた方の出会った試みで、世間ありきたりでなかったものはありません。神は真実にいまします。神はあなた方が耐えうる以上に試みられることをお許しにならず、試みとともに、耐えうるよう逃げ道をお作りでしょう」(「第1コリント人への手紙」第10章13節)
人智を超えた逃げ道も,善く見れば見つかるみたいです。
どうぞ,皆さんもお試しくださいね。
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