乱痴気騒ぎは、それを認める文化の中ではいいのですが、近代国家ではなかなかそうもいきません(オレンジやトマトを街中の人がぶつけ合う行事もありますが…。)。そういう国で乱痴気騒ぎに代わるものが、酒と薬とセックス(とギャンブル)です。しかし、それらは社会的に受け入れられないので、日陰者という感じを免れません。第一、相手にされない気持ちの一時しのぎにしかなりません。
こういったあらゆる形の乱痴気騒ぎの結び付きには、三つの特色があります。それは、暴力的でさえあるほど強力であることと、人格全体、心も体も含んだところに起こること、そして、一時しのぎで期間限定だ、ということです。その正反対が、過去にも現在にも、人間が選んだ、最もよくやる解決法による結びつきに当てはまります。すなわち、習慣によって、習わしによって、信念によって、集団へ「同調」することに基づく結びつきです。私どもはここでもまた、かなりの発達があることに気づきます。
集団への同調による、日本人が一番よくやる手が、酒や薬やセックスと真反対というのは、ちょっと分かりませんね。集団への同調圧力が日本では猛烈だからです。ですから、日本における集団への同調圧力は、暴力的であるくらい強烈ですし、全人格の参与求めるし、一次しのぎです。一時強烈に、全人格をかけるフリをして、集団へ同調しても、その集団の形勢次第で、同調するのが別の集団になることは、日本においてはよくあることでしょう。加藤周一がよく言うように、戦争中は「鬼畜米英」と言っていたのに、舌の根も乾かぬうちに、「大した摩擦もなく」、敗戦後は「杯米一遍どう」に変わったところに現れるのです。
フロムはどうして、集団への同調は、酒と薬とセックスとは異なると言っているのでしょうか?
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