今宵は、特にうれしいご報告です。
本田哲郎神父様『釜ヶ崎と福音』から。
「貧しい人々は、幸いである」の「幸い」も、やはり誤訳だと思います。新共同訳では、カトリック、プロテスタント、どちらの聖書学者も、この訳文の不十分さを認め、言い回しを変えることに賛成していた。けれども、「耳になじんだ定着度の高い表現を変えるわけにはいかない」ということになってしまって、従来どおりに戻ってしまった。わたしは、この箇所は「心底貧しい人たちは、神からの力がある」と訳しています。なぜ、そう訳せるのかといえば、「幸い」と訳されてきた「マカリオイ」というギリシア語は、ヘブライ語の「アシュレー」、つまり「祝福されています」、「そのままつきすすんでいいよ」という保証、元気づけのことばです。いま持っている感性のままで堂々と進んでください、ということであり、いまの貧しい状態にそのままいなさい、貧しいことは幸いなのですよという意味ではない。
これは、エリクソンの言うa sense of autonomy ≪自分の感じに従ってやっていい感じ≫と全く同じです。エリクソンが、聖書の言わんとすることに非常に敏感であることが解かります。0歳1歳の時のa sense of basic trust がピスティス πιστις ≪自分の感じを人は大事にしてくれるし、自分も大事にできると信頼していること≫、 1歳2歳の時のa sense of autonomyが、マカリオイ μακάριοι ≪自分の感じに従ってやっていい感じ≫なんですからね。
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